方から、
「そうだそうだ!」
「うまいぞ!」
「馬田、しっかり!」
などと声援がおくられた。
が、みんなの視線がその方にひきつけられたとたん、教室の床板にすさまじい音がして、周囲のガラス戸がびりびりとふるえた。それは新賀が今までつっ立っていた机の上からだしぬけに飛びおりた音だった。彼は飛びおりたその足で、まっすぐに馬田の方につき進んだ。そして、そのまんまえに仁王立になって、言った。
「君はいま、みんなを尊敬していると言ったね。」
「うむ、言ったよ。」
と、馬田もほとんど無意識に立ち上った。そのひょろ長いからだが、いくぶんくねってゆれている。
「じゃあ僕はどうだ。僕も君の尊敬している一人か。」
「むろんだよ。」
「ばかにするな!」
新賀はこぶしをふりあげ馬田をなぐろうとした。しかし、もうその時には、次郎が二人の間に割りこんでいた。彼は新賀をうしろにおしもどしながら、
「なぐるのはよせ。どんなに腹が立っても、僕らが暴力を用いたら、何もかもおしまいだ。」
「うむ。」
と、新賀は案外おとなしくうなずいて、自分のもとの席にもどったが、いかにもぐったりしたように、そのまま眼をつぶり、両手で額をささえた。それはいつもにない彼の姿勢だった。
次郎は、そのあと、また馬田の方に向きなおって何か言い出しそうなふうだったが、しばらく考えたあと、思いかえしたように廊下に背を向け、馬田に対したのとはまるでちがった、しみじみとした調子で言った。
「僕は諸君にあやまらなければならないことがある。僕は、やっと、今それに気がついたんだ。」
いくらかざわつきかけていた空気が、それで、またしずかになった。
「僕たちは、いま、ストライキをやるかやらんかという問題で争っている。しかし、考えてみると、これほど無意味な争いはない。この無意味な争いの原因は――」
言いかけると、廊下の方から誰かがまた叫んだ。
「無意味とは何だ。」
次郎はすこし顔をねじ向けて、
「朝倉先生の留任とストライキとは全く無関係だという意味だ。」
「もっとはっきり言え。ストライキをやっても駄目だというのか。」
「むろんそうだ。」
「やってみないで、どうしてそれがわかるんだ。」
「朝倉先生の人格がわかれば、それもわかる。先生は、――」
と、次郎は顔を正面にもどし、
「実は、われわれの願書が県庁でききとどけられても、留任する意志は全然持っていられない。僕は、おととい先生をおたずねして、直接先生の口からそれをきいて来たんだ。」
教室の中でも、廊下でもさわがしく私語がはじまった。
「すると、平尾君が最初主張したとおり、何もやらない方が賢明だったというのか。」
そう言ったのは梅本だった。みんなの眼が一せいに平尾をさがした。平尾は座長席のすぐ近くの机に頬杖をついて、眼をつぶっていた。
次郎もその方に眼をやって、ちょっと答えに躊躇したが、すぐ梅本を見て答えた。
「結果からいうとその通りだ。しかし、僕たちは願書を出したことを後悔する必要はない。願書は、僕たちの希望を表明するただ一つの手段だったんだ。結果を予想して、僕たちに残されたただ一つの手段までも捨ててしまうのは、賢明どころか、道義上のなまけ者だと僕は信ずる。」
平尾の方にまた視線が集まった。平尾は、しかし、相変らず眼をつぶったままである。
「えらいぞ、本田。」
と、少し間をおいて、誰かが頓狂な声で野次をとばした。つづいて、
「しかし残された手段は願書だけではないぞ!」
「そうだ! ストライキという最も有効な手段を逃げる奴こそ、道義上のなまけ者だ。」
次郎は首をねじて、しばらくその方をにらんでいたが、しまいに、からだごと向きなおって、
「ちがう! ストライキは一種の脅迫だ。脅迫は断じて正しい手段ではない。それこそ道義上のなまけ者の用うる手段だ。それに――」
と、彼は一瞬馬田の方を見たあと、
「ストライキの煽動者にとっては、それは正しい目的のための手段でさえないんだ。彼らはたださわぎたがっている。ストライキ遊びをやりたいというのが、要するに彼らの本心なんだ。僕は、諸君が朝倉先生留任運動の美名に欺かれて、彼らの劣情の犠牲《ぎせい》にならないように、敢えてこの機会に警告する。」
「よけいなおせっかいだ。」
馬田の相棒の一人が叫んだ。しかし、そのほかには誰も何とも言うものがなかった。それは、次郎のいった言葉に同意したというよりも、むしろ彼の気魄に気圧されているかのようであった。入学当時の彼の英雄的行為が、ここでもみんなの心理に作用していたことはいうまでもない。
しばらく沈默がつづいた。次郎は廊下にならんでいる馬田の仲間の顔を、ひとりびとり念入りに見たあと、また教室の中心の方にむきをかえ、いくらか沈んだ調子で言った。
「しかし、今から考えると、僕たちの願書も決して完全であったとはいえない。実は、白状すると、あの願書は僕が書いたんだ。僕が書いたことを秘密にしてもらったのは、あの時新賀が説明したとおり、あの願書が僕一人の意志でなくてみんなの総意だと信じていたからだ。しかし、それは僕の思いちがいだった。何よりいけなかったのは、僕があの願書を血で書いたことだ。僕は、あれを書く時には、それが最善の道だと信じきっていた。血をもって願う、それ以上の願いようはない。諸君もこれならきっと共鳴してくれるだろう、そう僕は信じていたのだ。そして諸君が何のぞうさもなく血判をしてくれた時には、僕は実にうれしかった。僕の考えは誤っていなかった、ストライキなどという脅迫的な手段に訴えて、朝倉先生の人格をきずつけるようなことは、誰も好んではいないのだ。そう僕は思って実にうれしかったのだ。しかし、さっきからの様子を見ているうちに、僕はとんでもない思い違いをしていたことに気がついて、恥ずかしくてならない。もし僕が、あの願書を墨で書いていたとしたら、諸君は果してあの時あんなにたやすく僕の考えに同意してくれただろうか。恐らくそうではなかったろう。諸君はもっと自由にめいめいの意見を述べたにちがいないのだ。そうだとすると、僕があの願書を血で書いたということは、諸君の自由な意見を封じ、諸君の血判までを強要したということになるのだ。その証拠がきょうこの会議にはっきりあらわれている。その意味で、僕の血書はやはりストライキと同様、一種の脅迫だったのだ。脅迫によって結ばれた約束が破れるのは当然だ。そしてその結果が、たった今馬田と新賀との間に行われたような、脅迫と脅迫との競合いになるのも当然だ。僕は、諸君に、僕の無自覚によって、すべてのそうした原因を作ったことを心からあやまる。」
静まりきった、しかし底深く動揺する海のような空気が全体を支配した。みんなの表情はまちまちだった。しかしそれは、おどろきと、あやしみと、好奇と、そしてえたいの知れない感激との、いろいろの割合における混合以外の何ものでもなかった。
その時まで、額を両手でささえ眼をつぶったままじっと動かないでいた新賀も、いつのまにか首をさしのべ、眉根をよせて、うかがうように次郎を見つめていた。梅本は両腕を組み、のけぞり気味に首をまっすぐに立てて次郎を見ていたが、その眼は怒った人の眼のように鋭く光っていた。大山の顔からは、さすがにその満月のような和やかさは失われていなかった。しかし、それでも、口を半ば開き、眼をぱちぱちさしていた様子は、決してふだんの彼ではなかった。
ただひとり、全然無表情だったといえるのは平尾だった。眼をつぶり、頬杖をついたままの彼の姿勢は、まるで次郎の言葉をきいていなかったかのようにさえ思えた。もしそれが彼の作為の結果だったとすれば、彼は、作為の技術においても、級中の首席を占めるだけの力量をそなえていたといえるであろう。
平尾とは反対に、最も目立った、しかも他の生徒たちとはまるでちがった種類の表情をしていたのは馬田だった。彼はそのしまりのない口をいよいよしまりなくしていた。これまで彼の顔にうかんでいた彼独特の冷笑は、あとかたもなく消え、眼だけが、いかにも忙しそうに、次郎と廊下の仲間たちの間を往復していた。それは、仲間たちの顔から一途に何かをよみとろうとする努力のように思われた。
次郎は、みんなの沈默の中に、なかば眼をふせ、しばらく身じろぎもしないで立っていたが、また急に馬田の方に向きなおって、
「馬田! 君は、しかし、まさかあの血書に脅迫を感じたのではあるまいね。」
今の場合、馬田にとって、これほど皮肉な質問はなかった。そうだと答えても、そうでないと答えても自分の立場がなくなるような気がするのだった。彼は答えなかった。答える代りに、両腕を組み、うそぶくように天井を見た。
「僕は、君が答えたくない気持もよくわかる。」
と、次郎は少し声をおとして、
「だから、強いて答えを求めようとは思わない。しかし、君は恐らく、脅迫されて血判をしたなどとは絶対に言いたくないだろう。僕自身としても、君の血判が君の自由な意志でおされたものだと信じたいんだ。そう信ずることが君の名誉でもあるし、僕もそれだけ責任がかるくなるわけだからね。だが、それならそれで、その時の君の血判の意味をあくまで尊重してもらいたいんだ。今になって、血書に一応の敬意を表するための血判だったなどと、いい加減なことを言うのは、断じて君の名誉ではあるまい。もし君が脅迫されて約束したというのなら仕方がない。またもし、その約束が正しくない約束だったとするなら、それも仕方がない。しかし、もしそうでなかったら、男子が一旦血をもって結んだ約束だ、あくまでそれを守りぬくのが君の名誉ではないかね。僕は同級生の一人として君に忠告する。いや、お願いする、どうか約束を守ってくれたまえ。君自身の名誉のために、そして僕たちの尊敬する朝倉先生の名誉のために、いや、朝倉先生がいつも僕たちに言われた人間としての正しさを守るために、僕は心から君にそれをお願いしたいのだ。」
次郎は、そう言いながら一心に馬田の顔の動きを見つめていた。しかし彼の気持は、彼の言葉が終る少しまえ頃から、廊下にいた生徒たちのざわめきによっていくぶんかきみだされがちであった。しかもそのざわめきは、これまでとはちがって、彼の言葉に対する反応からではなく、生徒たちの顔の動きから判断すると、廊下の、教室からは全く見えないところにその原因があるらしかった。それが一層彼の気持をかきみだしていたのである。
馬田も同様であった。彼ははじめのうち、次郎の言葉に対して非常に複雑な反応を示していたが、廊下のざわめきに気がつくと、とかくその方に気をとられがちになった。そして次郎の最後に言った言葉も、次郎が期待したほどには強く彼の心にひびかなかったらしいのである。
ざわめきの原因は、次郎の言葉が終ると、すぐわかった。
「道をあけろ。」
そんな声が、隣の教室のまえあたりから、まずきこえた。すると、入口をふさいでいた生徒たちは、いかにも不服そうな顔をしながら、つぎつぎにうしろの方を押して、いくらかの空間をつくった。
やがてあらわれたのは配属将校の曾根少佐だった。そのあとから西山教頭がはいって来た。ふたりともフェルトのスリッパをはいている。拍車のついた長靴でいつもがらがら音を立てて廊下をあるく曾根少佐としては、それは全く異例なことであった。
生徒間には、曾根少佐は「ひげ」と「がま」のあだ名でとおっていた。鼻下にすばらしく長いひげをたくわえ、その尖端をカイゼル流にもみあげたのが、うしろからでもはっきり見えるくらいなので、ほかにもひげの多い先生が何人かいたにもかかわらず、少佐赴任以来「ひげ」といえばもう少佐にきまったようなものであった。しかし、このあだ名はあまりにも平凡であり、それに第一少佐本人がそう呼ばれるのをむしろ得意にしているようなふうもあったので、有名なわりに生徒たちの興味をひかず、このごろでは「がま」の方がよほど人気があるようである。「がま」の由来は、校庭で蟇《がま》を見つけた一生徒が、しみじみそれを観察しながら、「蟇《が
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