らしい。
 知事や校長をはじめ、諸先生や生徒たちのこともちょいちょい話題に上った。馬田の噂が出たのはむろんである。次郎は、自分から馬田のことを言い出すのを控えていたが、徹太郎が「馬田ってどんな人物だい。」とたずねたのをきっかけに、思いきり彼をこきおろした。そして最後にとくべつ力をこめて言った。
「最も軽率なストライキの主張者は馬田です。朝倉先生を慕う気持なんか微塵《みじん》もないくせに、はじめっからわいわい騒ぎまわっているんですが、それはストライキをやるのが面白いからなんです。こないだの委員会の時も、あいつが真先になってストライキを主張していました。僕の第一の敵は、だから、あいつです。あいつさえたたきつければ、ストライキは食いとめられるんです。」
 すると、徹太郎は言った。
「そうだと、君はなおさら道江さんの用心棒みたいになるのを避けた方がいいね。万一にも、君の馬田に対する気持の中に、ストライキ問題と道江さんの問題とがからみあっているとすると、それは君自身の人間としての値うちに関することだし、うっかり出来ないことだよ。とにかく馬田と同じレベルに立っての勝負はよしたがいいね。」
 次郎は高いところからまっさかさまに突きおとされたような感じだった。
 間もなく四人は、敏子が用意してくれた食卓についたが、話はあまりはずまなかった。
 食事を終ると、徹太郎は散歩かたがた道江の帰りをおくって行くことにした。そとはまだ明るかった。次郎もいっしょについて出たが、彼の胸の中には、きょう一日の出来事が、おもちゃ箱をひっくりかえしたように、ごったがえしになっていた。彼は歩きながら、その一つ一つをひろいあげてみた。血書提出、県当局の警戒、校内の動揺、朝倉先生訪問、私服刑事、馬田とのにらみ合い、大巻訪問、とそのいずれをとってみても、彼には鉛のように重たい感じのすることばかりであった。ただその中で、いくらか彼の気持を明るくするものがあったとすれば、それは、朝倉先生に意外にも血書を書いたのを許してもらったことと、道江が大巻の家で安全に保護されるようになったことであろう。もっとも、この最後のことは、なぜか彼に淡い失望に似たものを同時に感じさせていたのである。

    六 沈默をやぶって

 それから二日たった。その間に四人の生徒代表は、何度もそろって校長室をたずね、県の回答を求めた。校長は、しかし、県当局ではまだ考慮中だと答えるだけで、一向要領を得なかった。
 田上が、
「では、われわれも校長のお伴をして、われわれの気持を直接知事さんにお話ししたいと思いますが、どうでしょう。」
 と言うと、校長は、例のとおり鼻を額の方に移動させ、――もっとも、これは梅本がよくよく観察したところによると、鼻のつけ根に急に横皺がより、鼻翼《びよく》がつり上り気味にふくらむだけのことだったが――手をやたらに横にふって答えた。
「そんな非常識なことが出来るものではない。校長と生徒がいっしょになって知事閣下におねがいするなんて、そんなばかなことをどうして思いつくんだ。第一、生徒がそんなことを考えているということが、知事閣下のお耳にはいったら、もうそれだけで何もかもぶちこわしになってしまうじゃないか。」
「じゃあ、僕たちだけで県庁に行きます。」
 と、新賀がいつものぶっきらぼうな調子で言うと、どうしたわけか、今度はいやに落ついた、いくぶんあざ笑うような顔付をして答えた。
「知事閣下が君たちにお会い下さると思うのか。……まあ、ためしにお訪ねしてみるがいい。」
 しかし、何よりも彼らの反感をそそったのは、彼らと校長との会見がはじまると、用もないのに、いつも西山教頭がのそのそ校長室にはいって来て、壁ぎわの長椅子に腰をおろすことだった。
 西山教頭は古い型の英語の先生でevilという字をエヴィルと読んで、若い英語の先生たちに蔭では「エヴィルさん」と呼ばれているほど発音の誤りが多い。それにも拘らず、訳解の方では文法がらめでびしびし生徒をいためつけるし、万事に規則ずくめで冷酷なところがあり、生徒たちには非常にきらわれている。その先生が三角形の瞼の奥にいたちのような小さい眼玉を光らせ、会見の様子を見張っているのだから、不愉快この上なしである。
 しかし西山教頭は、単にはたで見張っているというだけでなく、しばしば自分でも口をきいた。大ていは校長が返事にまごついている時だったが、たまには、校長の言葉を途中でさえぎったり、訂正したりすることもあった。それは、校長のうしろ楯となって、その立場を擁護《ようご》するためのようにも思えたが、また、あべこべに、生徒たちのまえで校長にけちをつけているようにも思えた。このことについては、校長との会見の模様をいつもあまり話したがらない平尾でさえ、報告会の時にかなり烈しい口調で非難したほどであった。
 校長は、知事のことというと、まるで神様あつかいだったが、その点では、西山教頭はさほどでもなかった。彼はしばしば閣下という敬語さえ使わなかった。そしてこんなことも言った。
「君らは知事にさえお会いすれば、目的が達せられるように思っているが、朝倉先生の問題はそうは行かんよ。知事にだってどうにも出来ないことだからね。」
 西山教頭に対する反感は反感として、この言葉だけは四人の代表の耳にぴんとひびいた。そして報告会のときも、とくべつ重要なこととしてみんなに伝えられた。
 報告会は、校長との会見の都度《つど》、ごく簡単に休憩時間中に行われた。しかし、最後の会見――それは四人の代表がみんなにわいわい言われて、午後の授業を自分たちだけ休んでの会見だったが――のあとは、そうは行かなかった。集まった室は例によって、二階のつきあたりの五年の教室だった。そこには校友会の委員だけでなく、五年のほとんど全部と四年の一部とが押しかけて来ており、廊下まで一ぱいに人垣をつくっていた。そして一通り報告がすむまでは割合静かだったが、そのあとは蜂の巣をつついたように騒がしかった。発言もむろんもう委員だけには限られていなかった。
「もう血書を出してから、今日でまる三日だぞ。県庁はいったい、いつまで考えているんだ。」
「校長なんか相手にするのが、そもそも間違っている。なぜ最初から県庁にぶっつからなかったんだ。」
「代表はもっとしっかりせい。」
「代表だけじゃない。校友会の委員全部が甘いんだ。自分たちだけが血判をすれば、それで全校を代表するなんて考えるのは、そもそも生意気だよ。」
「ぐずぐずしていて、朝倉先生の退職が発表されたら、誰がいったい責任を負うんだ。」
「県庁に向かってすぐ行進を起せ。」
「行進は全校生徒でやるんだ。そのまえに授業を休んで、まず生徒大会をやれ。」
「そうなるともうストライキだが、みんなにその決心があるのか。」
「あるとも。目的が達しられなければ、どうせストライキと決まっているんじゃないか。」
「そうだ。道はもうはっきりしているんだ。」
 そうした叫びがつぎからつぎに起って、事態はますます険悪になって行くばかりであった。座長の田上は、何度か手をあげたり、卓をたたいたり時には立ち上ったりして、みんなを制止しようとしたが、まるで効果がなかった。それは廊下に陣取っている一団が、わざとのように騒ぎ立てるせいでもあった。その一団の中には、ふだん馬田と親しくしている生徒たちの顔が幾人かならんでおり、馬田は教室内ではあったが、すぐその近くの窓ぎわに席を占めていたのである。
 とうとうたまりかねたように新賀が立ち上った。しかし、立ち上っただけでは十分でないと見たのか、いきなり生徒机の上に飛びあがり、隣りあった二脚をふみ台にして、大きく足をふんばった。廊下も室内も急にしずかになり、みんなの視線は一せいに彼に注がれた。彼はちょうど室の中央にいたので、みんなは銅像をとりまいてそれを仰いでいるような恰好であった。彼のふみ台になった机によりかかっていた生徒たちは、眼をまるくして真下から彼を見あげた。
 彼は一巡みんなを見まわしたあと、――といっても、真うしろの方には視線がとどかなかったが、――低いゆっくりした、しかし威圧するような声で言った。
「君らは、血書を出す時、ストライキは絶対にやらんという約束をしたのを、もう忘れたのか。」
「誰がそんな約束をしたんだ。僕らは知らんぞ。」
 誰かが廊下の方から言った。
「君は誰だ。」
 と、新賀は声のした方にじっと眼をすえ、
「この会は校友会の委員会だ。だから僕は委員諸君にたずねている。委員以外のものはだまっていてくれたまえ。」
 廊下の方にぶつぶつ言う声がきこえ、室内もいくらかざわめき立った。新賀は、しかし、平然として、
「どうだ、委員諸君、君らは約束を忘れたのか。」
 誰も答えるものがない。沈默の中にみんなの眼だけがやたらに動いた。
 とりわけ動いたのは馬田の眼だった。彼は新賀が立ち上った瞬間から、冷笑するような、それでいて変に落ちつかない眼をして、あちらこちらを見まわしていたが、沈默がつづくにつれ、それが次第にはげしくなり、しまいには、顔をねじ向けて廊下の仲間の一団を見た。そして何かうなずくような恰好をしたあと、わざとのように天井を見、いかにもはぐらかすような調子で言った。
「そんな約束なんか、どうだっていいじゃないか。」
「ふざけるな!」
 と、新賀は一喝して馬田をねめつけた。馬田もみんなの手まえ、さすがにきっとなって、
「ふざけるなとは何だ。僕はまじめだぞ。」
「一旦結んだ約束を、どうでもいいなんて、まじめで言えるか。」
「言える。目的にそわない約束は無視した方がいいんだ。」
「そうだ!」
 と、廊下の方で二三人が一せいに叫んだ。新賀はその方にちょっと眼をやったが、すぐ、また馬田を見、割合おだやかな調子で、
「君はストライキをやれば、かならず目的が達せられると思うのか。」
「そりゃ、やってみなくちゃわからん。しかし、少くとも机の上で書いた血ぞめの文章なんかよりゃ有効だよ。」
 一瞬、新賀の顔が紅潮した。しかし、彼はそのためにひどく興奮したようには見えなかった。彼は相変らず馬田の顔をまともに見つめながら、
「じゃあ、なぜ君は血判までしてストライキをやらないという約束をしたんだ。」
「僕はそんな約束のための血判をしたんじゃない。血ぞめの文章に一応敬意を表しただけなんだ。」
「馬田!」
 と、その時、新賀のすぐうしろの方から、べつの声がきこえた。声の主は次郎だった。彼はそう叫んで立ち上ったが、自分のまんまえに新賀の尻がおっかぶさってみんなの顔が見えなかったらしく、机と机との間を泳ぐようにしてまえに出た。そして少しそり身になって両手を腰にあて、えぐるような視線を馬田の方になげた。
 みんなは片唾《かたず》をのんで彼を見まもった。彼に好意をもつものも、反感をいだくものも、彼が数日来の沈默をやぶったということに好奇の眼をかがやかしたのである。
「君は――」
 と、次郎は気味のわるいほど底にこもった声で言った。
「君は、新賀が血判をするまえにあれほど念をおして言ったことを、きいていなかったのか。」
「きいていたよ。」
 馬田はそっぽをむいて投げるように答えた。硬ばった冷笑が、しかし、彼の落着かない気持を裏切っている。
「きいていて、それをはじめから無視していたのか。」
「まあそうだね。どうせ血染の文章なんか役に立たないってこと、僕にははじめっからわかっていたんだから。」
「すると、君の血判はうその血判だったんだね。」
「血判はうそじゃないよ。血染の文章に敬意を表したのはほんとうだからね。」
「君はただそれだけのために血判をしたのか。」
「そうだよ。」
「君がいま言ってることは本気だろうね。」
「むろん本気だよ。」
「それで君はみんなを侮辱しているとは思わんのか。」
「思わんね。僕はあべこべにみんなを尊敬しているつもりなんだ。」
「尊敬している? 約束をふみにじって何が尊敬だ。」
「僕は、みんなの目的を達するようにするのが、ほんとうの尊敬だと思っているよ。」
 廊下の
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