ないわ。」
「どうしてです。」
 次郎は、むきになった。敏子は笑って、
「どうしてだか、あたしにもわからないわ。だけど、世間は、いたずらをした男よりか、いたずらをされた女の方に、よけいにけちをつけたがるものなのよ。そんなことでお嫁にも行けないでいる人があるってこと、次郎さんはご存じない?」
 次郎は、そんな実例があるかどうかはよく知らなかった。しかし、敏子の言っている意味はよくわかった。そして、そうであればあるほど、いよいよ馬田を許しておくのが不都合だという気がした。
「すると、馬田はこのままほっておくつもりですか。」
「こないだ、重田の父から、千ちゃんのお父さんに、気をつけていただくように、話してもらってはありますの。」
「しかし、そんなこと、何の役にも立たないじゃありませんか。きょうも平気で待伏せしていたっていうんだったら。」
「ええ。でも、そんなことよりほかに、どうにもしようがないわ。」
「しかし、馬田をどうもしないで、ただ逃げまわっていたんではだめですよ。」
 次郎は、そう言って、視線を道江の方に転じながら、
「もし、馬田もまわり道したら、道江さんはどうする?」
「こまるわ、あたし。」
 道江はただしょげきった顔をするだけだった。次郎は舌打ちしたくなるのをこらえながら、
「僕は、道江さんが、どうせ馬田にねらわれているんだから、堂々とあたりまえの道を通る方がいいと思うね。」
「そうかしら。」
「まわり道なんかして、いたずらされたら、よけい世間にけちをつけられるよ。」
 道江は答えないで敏子の顔を見た。敏子は、
「それもそうね。」
 と、何度もうなずいた。そして、
「同じクラスの人が、あの村から一人でも学校に通っていれば、毎日道づれが出来るんだけれどねえ。……まさか、次郎さんに待ちあわしていただくわけにもいくまいし。……」
 次郎はすこし顔をあからめた。が、すぐ思いついたように、
「僕、道づれは出来ないけど、見張りならやります。」
「見張りって、どうするの?」
「僕、馬田と同じクラスですから、毎日いっしょに帰ろうと思えば帰れるんです。」
「千ちゃんの方を見張るの? でも、橋から先はだめじゃない?」
「僕も橋を渡って様子を見ていればいいんでしょう。あれから村の入口までは見通しだから、大丈夫ですよ。」
「毎日そんなことが出来て? 千ちゃん、きっと変に思うでしょう。」
「そりゃあ、思うでしょう。」
「けんかになりはしない?」
「なるかも知れません。しかし、なったっていいんです。」
「いやね、道江のために、男同士がけんかをはじめたりしちゃあ。」
「あたし、こわいわ。」
 と道江も眉根をよせ、肩をすぼめた。
 次郎は、二人の言葉から、まるでちがった刺戟をうけた。敏子の言葉からはひやりとするものを感じ、道江の言葉には憐憫に似たものを感じたのである。一人の女を中にして、馬田のような男と争っている自分を想像すると、たまらないほどいやになるが、また一方では、道江という女が、自分というものをどこかに置き忘れているような性格の持主であるだけに、放っておくに忍びないような気もするのだった。彼は二つの感情を急には始末しかねて、だまりこんでしまった。
「あたし、やっぱりまわり道した方がいいと思うわ。」
 道江は敏子を見て言った。
「そうね、――」
 と、敏子はちょっと考えて、
「でも、それは次郎さんがおっしゃるように、かえっていけないことになるかも知れないわ。いっそ、ここのうちから学校に通うことにしては、どう?」
 道江も次郎も眼を見張った。
「ここからだと、次郎さんに見張っていただくにしても、かどが立たないでいいわ。次郎さんが毎日、橋を渡ったりしたんでは、何ていったって変ですものね。」
「でも、いいかしら、こちらは?」
「こちらは大丈夫よ。わけをお話ししたらきっと許して下さるわ。みんなで道ちゃんを大巻の子にしたいって、いつもおっしゃっているぐらいだから。きょうお留守でないと、すぐお願いしてみるんだけど、お父さんもお母さんもご親類のご法事でお出かけなの。」
「義兄《にい》さんは?」
「もう間もなく帰るころだわ。」
 そう言っているところへ、ちょうど徹太郎が帰って来た。茶の間にはいって来て次郎たちの顔を見ると、「よう」と声をかけ、すぐ服をぬいで真裸になり、井戸端に行ってじゃあじゃあ水をかぶっていたが、まもなくぬれタオルを両肩にかけてもどって来た。そして、敏子に向って、
「このごろは、次郎君とも道江さんとも、いっしょに飯をくう機会がなかったようだね。きょうは老人たちも留守だし、若いものだけでどうだい。」
「そう? じゃあ、何にも出来ませんけれど、あたしすぐお支度しますわ。……道ちゃん、さっきからのこと、自分で義兄さんにお話してみたらどう?」
 敏子はそう言って立って行った。
「話って何だい。」
 徹太郎は大して気にもとめないような調子でたずねた。道江は顔を赤らめてぐずぐずしている。
「まさか一生の大事ではあるまいね。」
 徹太郎は、そう言って笑った。次郎はその瞬間ちょっと固い表情になったが、すぐ自分も笑いながら、道江に代って始終を話した。話しているうちに、彼は自分の言葉の調子が次第に烈しくなって行くのをどうすることも出来なかった。
 徹太郎はきき終って、
「ふうむ――」
 と、うなるように言ったが、
「そりゃあ、道江さんがここから学校に通うのはいい。そうする方が一番いいと思うんだ。しかし、学校の行きかえりに、次郎君が道江さんの用心棒になるのはどうかと思うね。」
 次郎は、ぐらぐらと目まいがするような感じだった。徹太郎は、いつになく沈んだ調子で、
「第一、君は今そんなことに気をつかっている時ではないだろう。君の学校の問題は決して容易ではないようだぜ。まだ噂だけで、はっきりしたことはきかないが、もう警察や憲兵隊が動き出しているというんじゃないか。」
 次郎は、朝倉先生の家をあれほど重くるしい気持になって出て来ながら、馬田と道江のうしろ姿を見た瞬間から、学校の問題がまるで自分の念頭から去ってしまっていたことに気がついて、愕然《がくぜん》となった。
 ついこないだ、朝倉先生のことで道江と話しあった時、道江の自分に対する心づかいを、あれほど無造作に、――考えようでは侮辱とも思えるほどの無造作な態度で退けた自分が、きょうは、たとえわずかな時間にせよ、道江の問題に夢中になって、朝倉先生のことをまるで忘れてしまっている。何という矛盾だろう。いや、何という軽薄さだろう。
 彼は、自信を失った人のように、力なく首をたれた。徹太郎叔父に対しても、道江に対しても、恥ずかしさで胸がいっぱいである。
「何しろ、朝倉先生の退職の理由が理由だし、君たちの行動を当局では極力警戒しているらしいんだ。万一ストライキにでもなったら大変だぜ。」
「ストライキには、僕、絶対に反対するつもりです。」
 次郎はやっとそれだけ答えた。ストライキ反対の理由が、当局のためでなくて朝倉先生のためだ、ということをつけ加えたかったが、まだそれを言うだけに気持がおちついていなかったのである。
「それならいいけれど、――」
 と、徹太郎はちょっと考えてから、
「しかし、昨日お父さんにきいたんだが、君は血書を書いたっていうじゃないか。」
「ええ。……書きました。」
「それがきっと大きな問題になると思うね。」
「僕はストライキをやらないためにあれを書いたんです。みんなもその条件であれを出すことにきめたんです。」
「しかし、ストライキになってしまったら、君の考えとはまるで反対の目的で書かれたことになりそうだね。」
「勝手にそう思うなら、仕方がありません。」
「主謀者と見られてもいいというのかね。」
「よくはないんです。しかし、仕方がないでしょう。」
 次郎の調子は少しとがっていた。道江の問題から遠ざかるにつれて、彼は次第に元気をとりもどして来たのだった。徹太郎は、しかし、心配そうに、
「君、やけになっているんではないかね。」
「やけになんかなりません。しかし、自分で正しいことをして退学されても、ちっとも恥ずかしいことはないと思っているんです。」
「ふむ。」と、徹太郎は感心したようにうなずいたが、「しかし、少し考えが足りなかったとは思わないかね。」
「思っています。あんなもの、何の役にも立たないってこと、あとになって気がついたんです。」
「うむ。しかし、無理もないね。役所というところを君らは全く知らないんだから。」
「僕はそんな意味で考えが足りなかったとは思っていないんです。役所は正しいことを通すのがあたりまえでしょう。」
「うむ、それで?」
「それで僕たちが正しい願いだと思った事を役所に出すの、あたりまえです。考えが足りないことなんか、ちっともありません。役所がだめだから正しい願いでも、慮して出さないで置こうかなんて考える人があったら、その人こそ考えが足りないと僕は思うんです。」
 次郎は、もうすっかり、いつもの彼をとりもどしていた。
「なるほど。これは痛いところを一本やられた。僕もいつの間にか現実主義者になってしまっていたわけか。ははは。ところで、君の考えが足りなかったというのは、すると、どういう点かね。」
「僕、きょう――」と、次郎は、また急に眼を伏せて、「学校のかえりに朝倉先生をおたずねしてみたんです。そして、僕たちの願いをかりに県庁が許してくれても、それで先生が辞職を思いとまられることはない、ということがはっきりしたんです。先生としては、それがあたりまえです。僕、そのことにちっとも気がついていなかったんです。」
「うむ。……なるほど。」
「僕、一所懸命で血書を書いたんですが――」
 と、次郎はすこし声をふるわせながら、
「それは朝倉先生に恥をかかせるだけだったんです。それに、もしそれがあべこべにストライキの口火みたいになったりすると……」
 次郎の声は、ひとりでにつまってしまった。
「うむ、君の気持はよくわかった。じゃあ、君はこれからストライキ食いとめに全力をそそぐんだね。道江さんは、ここから学校に通うことにすれば大丈夫だよ。土手を通らなくったって、ほかに道もあるし、馬田もそんなまわり道まではやって来まい。ねえ、道江さん。」
「ええ、まさか。」
 と、道江は笑ったが、すぐ真顔になり、
「次郎さん、ほんとにストライキのこと頑張って下さいね。あたし、血書のことちっとも知らなかったけれど、今きいてびっくりしたわ。それでストライキの主謀者にされちゃあ、つまらないんですもの。」
 次郎は何か物足りない気がしながら、それでも、いつもの道江とはかなりちがった道江をその言葉に見出して、だまってうなずいた。すると、また道江が言った。
「あたしのことは、もうほんとに大丈夫よ。これまで、あたし、あんまりのんきだったと思うの。次郎さんのお話をきいて、それに気がついたわ。女も、自分のことぐらい自分で始末するようにならないと、だめね。」
 次郎はうれしいというよりは、何か驚きに似たものを感じた。彼は、これまで、道江の口から、そうした自己反省的な言葉を一度もきいたことがなかったのである。
 それから話は次郎の学校の問題を中心に、いろいろのことに飛んで行った。朝倉先生の門のあたりに、もう私服の刑事がうろついているらしい、という次郎の話から、だんだんと花が咲いて、徹太郎は、ナチス独逸やソ連の例などをひき、「軍国主義と独裁政治と秘密探偵とは切っても切れないものだが、日本も今にそんな国になるかも知れない。」とか、「多数の日本人は、今では政党の腐敗にこりて、官僚政治や軍人政治を歓迎しているようだが、今にきっと後悔する時が来るだろう。」とか、また、「教育の軍隊化は教育の自殺だと思うが、教育者自身の中にかえってそれを喜んでいる者がある。それは、規律という口実の下に、生徒を安易に統御することが出来るからだ。」とか、そういった意味のことを、熱心に説いてきかせた。しかし、そうした話は、道江にはむろんのこと、次郎にも、まださほど痛切には響かなかった
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