いで、ただ自分の血で願いとおそうという諸君だけの署名を求めるんだ。失敬だが僕がまず署名する。」
 新賀はそう言って田上のまえの教卓に血書をひろげ、年月日の書いてある真下に万年筆で署名した。それから、かくしに手をつっこんで、しきりに何かさがしていたが、やがて取り出したのは小さなペンナイフだった。彼はそれをひらくと無造作に左手のくすり指をその尖端《せんたん》でつっついた。そしてちょっと顔をしかめてその指先を見つめていたが、すぐそれを自分の名前の下におしつけた。
 彼の無造作な挙動にひきかえ、室内はまるで画のように静まりかえっていた。ただ、もしその場に非常に注意ぶかい観察者がいたとすれば、その人は、次郎が自分の眼にそっと両手をあてて涙をふいていたことと、馬田が変におちつかない眼をして、ぬすむようにみんなの顔を見まわしていたこととに、気がついたであろう。
 新賀は血書と共に、自分の万年筆とペンナイフとを教卓の上に置いたまま、教壇をおりた。そして、
「誰か半紙をもっているものがあったら二三枚くれ。ザラ半紙でもいいんだ。」
「ザラでよけりゃあ、ここに沢山ある。」
 と、田上が総務用と書いた紙挟みの
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