生のお顔が見えることはたしかである。しかし、それだけでは物足りない。先生にも自分の方を見てもらいたいのだ。それは何も、自分がここで先生を見おくっているのを認めてもらいたいためではない。そんなことはどうでもいいことだが、ただ、先生の眼と自分の眼とが出っくわす瞬間が、もう一度ほしい。先生の眼だけではない、奥さんの眼とも……。
 彼のこの願いは、ほとんど衝動的《しょうどうてき》だった。それでいて何か無視出来ない厳粛な願いのように感じられた。もしその一瞬が得られないで汽車が遠のいてしまうとしたら、……彼はそう思っただけでも、もう何もかもがめちゃくちゃになる気さえした。
 彼は急に、それまで寄りかかっていた柵をはなれ、右側にならんでいた五六人の生徒をおしのけるようにして、最右翼に出た。そこは小さな倉庫みたような建物で限られており、それ以上生徒のならぶ余地はなかったが、倉庫と柵との間には、やっと人ひとり歩けるほどの空地があった。彼はその空地を一間ほどはいりこむと、柵の一番上の横木に飛びのり、片足を建物の板壁にかけてつっ立った。それから、右手に帽子、左手によごれた手拭をつかみ、何か信号でもやりそうな
前へ 次へ
全368ページ中290ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング