者でさえ、すでにその中に敵という言葉を用いているではないか。「その行いを悪《にく》んでその人を悪まず」といっても、人なくして行いがない限り、行いをにくむことは、やがてその人を敵とすることになるのではないか。愛と調和と、そしてそれに出発した創造のみが人生にとって有用であるということが真理であるとしても、いや、それが真理であれはあるほど、その真理にさからうものを敵として戦うことが必要になって来るのではないか。現に、その真理を僕たちに説かれた朝倉先生自身、すでにそうした戦いを戦われているのだ。僕はそう思わざるを得ない。
では、僕が現在、周囲に無数の敵を感じつつあるということは、いったいどうなのだ。それはいいことなのか、わるいことなのか。僕はそれをいいことだとは絶対にいいきれない。なぜなら、僕の内部には、それと同時に僕の幼いころのあらゆる悪魔が再び芽を出しはじめ、そのために僕の生命はうずまき、濁り、一切の誇りと喜びとを見失ってしまいそうだからだ。かといって、僕はそれをあながちわるいことだともいいきれない。なぜなら、不正と戦わないでは、愛と調和と創造との世界は生まれて来ないし、そしてそうした世
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