話をきいてもほとんど笑わなかったし、森川の「教員適性審査採点表」を見た時には、むしろにがい顔をして、ひとりで校庭にぬけ出したほどだった。ふだんから、彼はそう出しゃばる方ではなかったが、それでも、校友会の委員会などでは、新賀や梅本と共にかなり意見を発表する方だった。それが昨日以来、まったく沈默を守りつづけている。きょうはことに新賀や梅本に対してもあまり口をきかない。今朝あたりまでは、誰もそれを気にとめなかったのだが、みんなが笑うときに笑いもせず、また先生たちの品定めや、事件のこれからの成行きについて、みんなが非常な関心をもって話しあっているのに、自分ひとりで校庭をぶらつきまわったりしている彼の様子が、いつまでも周囲の注意をひかないでいるはずがなかった。しかも彼が、同級生の大部分がまだ朝倉先生の顔も知らない一二年の頃から、室崎事件や宝鏡先生事件を通じて先生から大きな感化をうけ、その後、白鳥会の一員にも加わって、先生の心酔者の中でもその第一人者になっていることは、誰でも知っていることである。こんな時こそ彼はみんなの先頭に立って活動すべきではないか。そうした考えが、一般の生徒たちの頭に浮んで来るのはごく自然であった。
「本田のやつ、どうしたんだろう。いやに考えこんでばかりいるじゃないか。」
「悲観しきって、どうにもならないんだろう。」
「朝倉先生にお別れするからかい。」
「そうだよ。あいつはまるで恋人のように朝倉先生を慕っていたからね。」
「しかし、それなら、なおさらこんな時には活躍しそうなものじゃないか。」
「活躍する元気がないほど打撃をうけているとすると、大いに同情に値するね。」
「そんなばかなことがあるもんか。何かほかにわけがあるんだよ、きっと。」
 二三人が渡り廊下に背をもたせてそんなことを話しているところへ、馬田がやって来て、仲間に加わった。
「何だい、わけがあるって。」
「本田のことだよ。あいつ、朝倉先生の問題だというのに、昨日から一言も口をきかないのがふしぎだって話しているんだよ。」
「ふうん、本田か。……あいつはだめな奴さ。」
「どうして?」
「まず、平尾と同類項だろうね。」
「本田が?……まさか。」
「しかし、昨日からのあいつの態度が証明しているよ。なるだけいい子になろうとしているにちがいないんだ。」
「僕には、本田がそんな卑劣な男だとは思えないがね。」
「ふふん。」
 馬田はあざけるように笑った。
 馬田は、実は昨日委員会が終ったあと、いつになく気がむしゃくしゃして家に帰って行ったのだった。次郎がみんなのどぎもをぬくような血書を書いたということが第一|癪《しゃく》だったうえに、自分もついそれに署名しなければならないはめになり、いかにも次郎の尻馬に乗せられたような恰好になってしまったのが、何としても腹におさまりかねていたのである。で、夕食をすましたら、すぐいつもの仲間にどこかに集ってもらい、血書に何とかけちをつける一方、全校をあすにもストライキに導く計画を相談する肚でいた。ところが、食卓について不機嫌に箸をとっているうちに、ふとなぜ新賀はきょうみんなに次郎が血書を書いたことを秘密にしたのだろう、という疑問が起った。この疑問は、ふしぎに彼の気持を明るくした。というのは、彼は彼なりにそれに判断を下し、何だか次郎の弱点がつかめたように思ったからである。次郎は、自分から言い出したてまえ、どうなり血書を書くには書いたが、書いたあとで、事件の主謀者と見られるのがこわくなり、新賀に自分が書いたことを秘密にするという条件でそれを渡したにちがいない。そう彼は判断したのだった。そして、この判断はいよいよ彼を上機嫌にした。血書が大きな問題になればなるほど、次郎はしょげるにちがいない。血書にけちをつけるのも面白いが、それを出来るだけ大げさな問題にして、次郎がいよいよしょげるのを見るのはなお一層面白いことだ。ストライキはどうせ早かれおそかれ放っておいても始まることだし、何も自分が先に立ってあせることはない。彼は、そんなふうに考えて、ひとりでほくそ笑んだ。そして、きょうは、彼にしてはめずらしく早く登校して、それとなく次郎の様子に注意していたが、次郎の様子は、彼の判断を十分に裏書しているように思えたので、彼は内心ますます得意になっていたのである。
 しかし、彼は、血書が次郎によって書かれたということを誰にも発表する気にまだなれなかった。それは、彼の自尊心や競争意識が何ということなしにそれを許さない、というだけではなかった。彼にとって大事なことは、ストライキの場合のことだったが、万一にも、それを発表したために、次郎が捨鉢《すてばち》になり、進んでストライキの主導権をにぎるような結果になってしまっては、つまらない。次郎は徹底的にやっつけなければならな
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