いが、それには、彼をあくまでもストライキ反対の立場に立たせておくことが必要である。最後まで彼を反対の立場に立たせておき、いよいよストライキ決行という場合に彼が逃げをうったら、その時こそ血書のことを暴露すべきだ。血書まで書いて人を煽動しておきながら、自分だけ逃げるとは何という卑劣さだ! みんなはそう言って彼を責めるだろう。それに、どんなに彼が逃げを打とうと、学校当局や県庁が、血書を書いた本人を主謀者と認めないはずはないのだから、いよいよ面白い。――馬田の考えは頗る念入りだった。彼がそれほどまでに次郎に反感を持つようになった最も大きい原因が、道江にあったことはいうまでもない。
馬田のあざけるような笑いを肯定するように、すぐ誰かが言った。
「そういえば、昨日本田は、変に人の顔ばかりのぞきながら血判をしていたが、ひょっとすると血判をごまかしたんじゃないかね。」
「血判はごまかそうたってごまかせないよ。みんなで見ているんだから。しかし、本田がそれをいやがっていたことはたしかだね。」
「それには何か特別な原因があったんじゃないかね。いつもの本田にしちゃあ、すこし可笑《おか》しかったよ。」
「馬田にはそれがわかっているんじゃないのか。」
馬田は、また「ふふん」と笑った。そして、
「君らはすこし本田を買いかぶっていやしないかね。」
「そうかなあ。しかし、僕たちが入学した時のことを考えてみたまえ。五年生の鉄拳制裁にびくともしないで反抗したのは、本田だけだったぜ。」
みんなの頭には五年まえの雨天体操場における恐ろしい光景がまざまざとよみがえって来た。その時の次郎の英雄的な態度は、忘れようとしても忘れられない記憶である。また、これはみんなが実際に見たわけではなかったが、「三つボタン」という綽名のあった始末におえない五年生の室崎を相手に、次郎が死物狂いの喧嘩をやって少しもひけをとらなかったという話は、あまりにも有名であり、雨天体操場の記憶とともに、自然、それもみんなの頭によみがえって来ないわけはなかった。
馬田は、機を見るにはわりあい敏感なたちだった。それに、どうせ遠くないうちに何もかもわかるのだと思うと、今しいて次郎をけなす必要もないと思った。
「本田も、しかし、このごろは大ぶ思慮深くなっているからね。」
彼は、そんな謎のような言葉を残して、さっさとその場をはなれてしまった。
彼は、しかし、それからも、校内を方々歩きまわって、上級の生徒たちが幾人かかたまって話しているのを見つけては、その仲間に入り、それとなくストライキを煽動するようなことを言ったり、次郎をけなしたりすることを忘れなかった。
その日、校長は県庁に行ったきり、ついに学校に顔を見せなかった。西山教頭が何度も電話口に呼び出され、ひるすぎには、五年全部の学籍簿《がくせきぼ》を抱えて県庁に出かけた。ということが、給仕の口から生徒たちに伝えられた。生徒たちには、それが何を意味するかは、さっぱりわからなかった。それだけに、不安な空気はひけ時が近づくにつれ、次第に濃《こ》くなって行った。
それでも、その日は、森川の教員適性審査以上に大した出来事もなく、ひけ時から二十分もたつと、校内には生徒の姿は一人も見られなくなった。ただ先生たちだけが校長の帰りをまつために居残っていたが、もう話の種もつきたらしく、どの先生も、いかにも所在《しょざい》なさそうな、それでいて何となく落着きのない眼をして、教員室を出たりはいったりしていた。
次郎は、新賀や梅本といっしょに校門を出た。新智と梅本とは、案外早く血書が県庁に届けられるようになったが、これはいいことだろうか悪いことだろうかとか、それが警察や憲兵隊の意志によったものだとすれば、恐らく結果は悲観的だろうとか、いや、警察や憲兵隊までが気にやむぐらいだから、却《かえ》って有望かも知れないとか、そういったことをしきりに話しあったが、次郎はただ道づれをしているというだけで、ほとんど合槌《あいづち》さえうたなかった。そして、二人に、「気分でもわるいんじゃないか。」と心配されながら別れたが、それから二丁ほどの街角まで来ると、彼は急に立ちどまって考えこんだ。街角を左にまがって少し行ったところに朝倉先生の家があるのである。
「朝倉先生が待っておいでだ。」――昨日父にそう言われたことが、彼には一日気にかかっていた。しかし、なお一層気にかかっていたのは、血書を書いた自分のことを先生が「かわいそうに」と言われたということだった。最初この言葉を父の口をとおしてきいた時には、それがあまりにも予期しない言葉だったために、ただ面くらっただけだった。しかし、彼にとって、朝倉先生の言葉は、とりわけそれが彼自身のことに関して発せられた場合、どんな片言|隻句《せきく》でも、軽い意味をも
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