の話なんか一度もしたことのない先生が、とってつけたように、修身めいた話をし出したり、また中には、変ににやにやしながら、「こないだ大垣前校長からお手紙をいただいてね。」と、その手紙の中に書いてあったという一二の文句を引き出して、前校長をほめ、自分と前校長の間には何か特別の関係でもあったかのようにほのめかしたりする先生もあった。すべてこういうことが何を説明しているかは、生徒たちにむろんわかりすぎるほどわかっていた。だから休み時間になると、彼らはそれを材料にして先生たちの品定めをするのに忙しかった。こんな場合、いつも奇抜な思いつきをやるので人気のある五年の森川という生徒は、四年と五年の各教室をまわってその品定めをきいてあるいていたが、昼休みの時間には、もう校友会事務室の黒板に「教員適性審査採点表」というのを書きあげていた。校友会事務室は、生徒控所の横の小さな室で、間はガラス戸で仕切ってあったので、控所からはまる見えだった。校友会の委員たち五六名が中でわいわいさわいでいる声をききつけて、ふだんは遠慮しがちな一二年の生徒たちまでが押しよせて来たが、その採点表の左の端には、馬賊、チャップリン、かまきり、あざらし、おでん、花王石けん、長茄子、瓦煎餅、といったような先生たちのあだ名が縦にならんでおり、それに括弧《かっこ》して受持学科名が書いてあった。そして、その右に点数欄と備考欄とがあったが、点数欄には五点というのが一つあるきりで、あとはみな四点以下だった。零点はさすがに一つもなかった。備考欄には、「品性下劣、御殿女中の如し」とか、「駈落《かけおち》三回心中未遂一回」とか、「野心満々、惜しむらくは低能」とか、「彼いつの日にか悔い改めん」とか、「愚鈍なるが如くにして、最も警戒を要す」とか、そういったさまざまの文句が、いっぱい書きつめてあった。五点の評点をもらったのは「あざらし」先生だったが、その備考欄には「性粗野にして稚気あり、陰険とは認めがたし、合否の判定は後日会議の結果にまつ」とあった。
この採点表の波紋は決して小さくなかった。押しよせた生徒たちにまじって、あとでは先生たちまでが代る代るのぞきに来た。生徒たちは、採点表にのっている先生が来ると、一々その点数を大声で叫んだ。中には、備考欄まで読みあげる者もあった。先生の中には、自分で自分の綽名をよく知っている先生もあり、そうでない先生もあったが、そんなことで、どの先生もいやでも自分の綽名をはっきり知らされるという結果になった。もっとも、中学の先生で、自分にかぎって綽名はないなどと安心しているほどいい気な先生はないはずなのだから、それは大したことではなかったかも知れない。しかし、綽名といっしょに、自分の点数ときびしい評語とを知らなければならなかったということは、何といっても最近の大きな試煉であったに相違ない。ある先生は顔をひきつらせてガラス戸のまえに棒立になり、ある先生は一たん顔をまっかにしたあと、強いて微笑をもらした。しかしどの先生も最後には、自分にはまるで関係のないことだ、といったような顔をしてその場を立ち去った。ただ「あざらし」先生だけは、その綽名が自他共にゆるすほど有名になっていて、ごまかしがきかなかったためか、それとも、備考欄にあった通り、事実粗野の稚気ある性格の持主であったためか、その大きな口を思いきり横にひろげて、よごれた上歯をむき出し、天井を向いた鼻の下に灰色のあらいひげを針のように立て、内をのぞきながら、「わっはっは」と笑った。そして、「わしだけは合格の見込があるちゅうのか。どうかよろしくたのむよ。」と言うと、くるりとうしろを向いて、もう一度「わっはっは」と笑い、歯をむき出したまま、むらがっている生徒たちを押しわけて帰って行った。
こんなふうで、校内はその日じゅう決して静かであったとはいえなかった。下級の教室までが何とはなしに落ちつきを失っていた。ふだんなら何でもないことにまで先生たちの神経がとがり、先生たちの神経がとがればとがるほど、生徒たちはその神経に触《さわ》ってみるのを楽しむといったふうであった。大垣前校長は、いつも先生たちに向かって、「生徒というものは、自分たちのために先生が命をすてるまでは、その先生を偉い先生だとは思わないものだ。それを覚悟の上でなくては、真の教育は出来ない。」と言っていたが、その意味をほんとうに理解した先生は、朝倉先生をのぞいては、おそらく一人もいなかったろうし、今では、どの先生にも、そんな言葉は単に言葉としてでも思い出されていそうになかった。こうして先生たちは自分を下手に護ろうとして、一歩一歩と自分を生徒たちの侮辱と嘲笑の中に追いこんでいたのである。
次郎は、学校のこんな様子を、終日いかにも淋しそうに見守っていた。彼は、花山校長の鼻の移動の
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