いい道江の性質が次郎にもよくわかっていて、自然、彼女に求むるところが最初からそう大きくなかったからでもあろう。また道江が気だてもよく、年頃もちょうど兄の恭一にふさわしいというので、祖母をはじめ、俊亮や、お芳や、大巻の人たちの間に、よりよりその話があるのをきいており、彼自身でも、何かのひょうしに、将来の兄嫁に今のようなぞんざいな口のききかたをしてもいいのか知らん、などと考えたりするほど、それを決定的なことのように思っているせいもあるだろう。とにかく、彼が道江に対してしばしば失望を感ずるのも事実だし、また、そのために少しでも彼女をうとんずる気になれないというのも事実である。そして、彼自身でそれを少しも変だと思わないところに、彼のひそかな恋情がひそんでおり、彼の将来の運命に何かの影をなげる因子《いんし》が芽を出しかけているともいえるであろう。
「次郎さん、おこったの。」
道江はねころんでいる次郎の横顔を見て、たずねた。
「おこってやしないさ。しかし、道江さんは考えかたが浅薄すぎるよ。人間はもっと真剣でなくっちゃあ。」
次郎は、そう言ってもう半ばからだを起していた。
「すまなかったわ。でも、あたし、何だか心配なの。次郎さんにはどこか烈しいところがあるんですもの。」
次郎は苦笑した。子供のころのことや、中学に入学したてに、五年生を相手に戦ったことが、心によみがえって来たのである。同時に、彼は、大垣前校長が口ぐせのように言っていた「大慈悲」という言葉を思いおこし、それを今度の朝倉先生の問題の場合にあてはめたら、自分たちはどういう態度に出るべきであろうか、と考えてみた。しかし、いくら考えてみても、その二つが彼の心の中でしっくり結びついて来なかった。ただ、朝倉先生の留任は「大慈悲」の精神にかなうが、万一にもそのための運動がストライキにまで発展したら、どんな立場から見ても、それにかなわないということだけが、はっきりしたのである。
道江は、次郎が考えこんでいるのを、自分の言葉のききめだとでも思ったのか、
「やっぱり、どうしても留任運動はおはじめになるの?」
「そりゃあ、はじめるさ。方法はもっと考えるが、このままほってはおけんよ。」
道江の予期に反して、次郎の答えは断乎《だんこ》としていた。しかし、彼はすぐ何かにはっとしたように、固《かた》く唇をむすび、じっと道江の顔を見つめた。その眼は、これまで道江が一度も見たことのない、つめたい、しかし烈しい光をたたえた眼だった。
「道江さん――」
と、次郎は、しばらくして口をひらき、
「僕は、こんな話を道江さんにするんではなかったんだ。僕はまだやっぱりだめなんかな。」
「どうして?」
道江の顔も、いくぶん青ざめている。
「かりに道江さんが、きょうの話を誰かにしゃべったとしたらどうなる?」
道江はけげんそうな顔をして、返事をしない。
「かりに僕の父さんにしゃべったとしたら、……いや、僕の父さんならわかってくれるかも知れない。しかしこれが普通の父兄だと、きっと僕のじゃまをするんだ。」
「そうか知ら。」
「そうか知らって、道江さんだって、さっき、朝倉先生の辞職の理由を問題にしていたんじゃないか。そんな理由で辞職する先生の留任運動をじっと見ていてくれる父兄は、今のような時勢にはめったにないよ。それに、どうかするとそれがストライキになる心配もあるんだからね。」
道江はやっとうなずいた。うなずいたのが、次郎の気持に同感したせいなのか、それとも一般父兄のそれに同感したせいなのかは、道江自身にもはっきりしなかった。
「だから――」
と、次郎は、もう一度道江の眼を射るように見つめて、
「僕は道江さんに、きょうの話は絶対に誰にもしゃべらないということを約束してもらいたいんだ。」
道江は眼をふせて、かすかにうなずいた。次郎は、しかし、まだ不安だった。少しの冒険性もない彼女の常識的な聰明さが、きょうほど彼にもどかしく感じられたことはなかったのである。
「いいかね。」
と、彼はつよく念をおした。そしてまるで脅迫するように、
「もし約束を守らなかったら、承知しないよ。」
道江が、次郎の口から、これほどきびしい、温か味のない言葉をきいたことは、これまでにかつてないことだった。彼女は少し涙ぐんだような眼をしていたが、それでも、だまって、もう一度うなずいた。
それっきりふたりが口をきかないでいると、急にそうぞうしい足音がして、俊三が階段を上ってきた。彼も、もう四年生である。今日は、午後武道の時間だったらしく、垢じみた柔道着をいいかげんにまるめて手にぶらさげていたが、道江にはあいさつもしないで、それを自分の机の近くにほうりなげると、すぐ次郎に言った。
「きいた? 朝倉先生のこと?」
「うむ、――きいたよ。」
次郎は
前へ
次へ
全92ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング