の若い軍人たちの考え方をけなしていられたんだから。」
「そんなにひどくけなしていらしって?」
「いつもの先生とはまるで人がちがっているような烈しさだったんだ。将来日本を亡ぼすものは恐らく彼らだろう、といった調子でね。」
道江は眼を見張った。そして急に何かにおびえたように肩をすぼめながら、
「そんなこと言ってもいいのか知ら。」
次郎は、いいとも悪いとも答えなかった。しかし彼の不満そうな眼が、あきらかに道江のそんな質問をけなしていた。彼はひとりごとのように、すぐ言った。
「朝倉先生だけだよ、今の時勢にそんなことが堂々と言えるのは。」
道江は心配そうに次郎の顔を見つめていたが、
「もし、おやめになるのがほんとうだったら、どうなさる。」
「むろん、留任運動さ。朝倉先生がやめられたら、学校はもうまるで駄目なんだからね。きっとみんなも賛成するよ。いや、賛成させて見せるよ。僕、きょう、学校でそんな噂をきいたときから、そのつもりでいるんだ。」
「でも、そんなことなすったら、次郎さんたちも大変なことになるんじゃない?」
「どうして?」
「だって、先生のおやめになる理由がそんなだと……」
次郎はきっと口を結んだきり、答えなかった。道江は、それでなお心配そうな顔をして、
「留任運動って、どんなことをなさる?」
「僕、さっきから、それを考えているんだよ。」
「まさか、ストライキなんかなさるんじゃないでしょうね。」
「誰がそんなばかなまねをするもんか。そんなことしたら、かえって朝倉先生に恥をかかせるようなもんだ。」
「でも、やり出したら、どんなことになるかわからないわ。」
次郎は腕組をしてだまりこんだ。彼はさっきから苦慮していたのも実はそのことだったのである。彼は、留任運励そのものが、すでに朝倉先生の気持にそわないということを、よく知っていた。しかし、朝倉先生を失ったあとの学校のうつろさを考えると、じっとしては居れない。何が何でも留任は実現させなければならない。それが実現しないくらいなら、自分も学校をよしてしまった方がいい、というふうにさえ考えているのである。だから、運動をよす気には絶対になれない。たとい朝倉先生に叱られても、それだけは仕方がない、しかし、やり出せばストライキになる心配はたしかにある。第一、今度の校長があの通りだし、古くからの先生たちに対する生徒間の不満もずいぶんつもっているのだから、生徒の中には、騒ぐのにいい機会が見つかったと思って、喜ぶものがあるかも知れない。そんなことで、もし実際にストライキになってしまったとしたらどうだろう。ストライキ、とりわけ学校ストライキは、何といっても学校に対する脅迫《きょうはく》であり、一種の暴力である。事件の大小はべつとして、それはちょうど朝倉先生が極力非難した軍人たちの過ちを、そのままくりかえすことになるのではないか。暴力を非難したために迫害されている朝倉先生を暴力で護ろうとする。それは何という矛盾だ。何という不合理だ。そしてまた何という無意味さだ。それが朝倉先生を公衆の中ではずかしめることにならないと誰が言い得るのか。――次郎はそんなふうに考えて、いろいろ思いなやんでいたのである。
「白鳥会の人たちだけでおやりなっても、だめか知ら。」
道江は、次郎が默りこんでいるのを同情するように見ながら、言った。
「そりゃあ、僕も考えてみたさ。しかし、こんなことは、やはり小人数ではだめだよ。少なくも五年級ぐらい団結しなきゃあ。それに白鳥会だけだと、何だか白鳥会のためにやっているようで変だよ。第一、それでは、ほかの連中が承知しないだろう、かえってそっぽをむいて笑うかも知れんね。」
「でも、それで次郎さんのお気持だけは通るんじゃないの。」
「なあんだ。」
と、次郎は、あきれたようにしばらく道江の顔を見ていたが、
「女って、そんなものかね。」
と、なげるように言って、ごろりと畳の上にねころんでしまった。
次郎は、道江に対して、時おりこんなふうに失望を感ずることがある。彼は、叔父の大巻徹太郎の結婚式のおり、花嫁方の席にならんでいた道江をはじめて見た時から、何となく心をひかれ、その後大巻を中にして親戚づきあいが深まるにつれ、次第に彼女との親しみをまし、今では、淡いながらも、それが心地よい一種の匂いとなって彼の血管を流れているのであるが、彼女と何かまじめな問題について話しあったりしていると、彼は時おりそうした失望を感じ、淡い匂いが血管からすっと消えて行くような気になるのである。もっとも、そうした失望も、さほど深刻には彼の心にひびかないらしく、淡い匂いが、まもなくまた彼の血管にただよいはじめる。それは、恐らく、聰明《そうめい》ではあるが普通の女の常識の限界を一歩ものりこえない、ただすなおで、親切で、物わかりの
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