をほぼ決定的だと考えているらしいことは、ゆうべの口ぶりからもおおよそ想像されるが、しかし、自分たちが留任運動をはじめようとしていることを知りぬいていながら、何でそんなにごあいさつをいそぐのか、それが彼にはふしぎでならなかったのである。
あるいは留任運動について先生のお気持をさぐりたいためにたずねたのではあるまいか。それが平尾と全く同じ目的ではないにしても、何だかいやな気がする。――彼はもうだまってはいられなくなった。
「ゆうべのこと、先生に話したんですか。」
「話したよ。」
俊亮は平気で答えた。次郎は父がにくらしい気になりながら、せきこんでたずねた。
「先生はどう言っていられたんです。」
「べつに何とも言われなかった。ただ、かわいそうに、と言って気の毒そうな顔をしていられただけだよ。」
次郎は打ちのめされた感じだった。もう何も言う元気がなかった。だまってうなだれていると、俊亮はトマトのわき芽をつむのをやめて立ちあがりながら、
「おまえも一度先生をおたずねするといいね。先生の方でも待っておいでのようだよ。」
「ええ――」
次郎はあいまいな返事をした。そして父がカンカン帽をかぶりなおしながら鶏舎の方に行くのを見おくっていたが、急に自分も立ち上っておも屋の方に行き、二階にかけあがるとぐったりと畳の上に寝ころんで、大きなため息をついた。
四 いろいろの眼
血書は約束どおり、あくる日、始業前に花山校長に提出された。平尾も、田上の勧告で、署名血判には案外すなおに同意した。しかし、みんなを代表して校長室に顔を出すことについては、彼は最初のうちなかなかうんとは言わなかった。田上が、君は総務としてただ顔を出してさえくれればいい、校長との応酬は一切自分がひきうけるから、と、なるだけ彼の責任をかろくするようなことを言ったので、やっとのこと彼も承知したのであった。
校長室における会見の様子は、あとで四人が――と言っても平尾はあまりしゃべらなかったが――みんなに話したところによると、かなり悲哀感をそそるものだったらしい。元来花山校長の鼻は、馬田が次郎のうちで言ったように、実際いかにもちょっぴりしている。恰好だけは、美人の鼻といってもいいほどととのっているのだが、顔の面積に比較して、それがあまりにも小さすぎるのである。血色のわるい、それでいていやにつるつる光っているだだっ広い顔のまんなかに、つつましすぎるほどつつましく、そしてそれ故に安定しすぎるほど安定してくっついているその鼻を、校長就任のその日以来、生徒たちは「ピラミッド遠望」と呼んで鑑賞しているのであるが、それは決して的はずれの形容だとはいえない。生徒間に、それほど安定した印象をあたえているその鼻が、血書を差出した瞬間、ぴくりと動き、しかも多少額の方にずれたように感じられたというのだから、およそ、その場の光景が察しられるであろう。
四人がこもごも語ったところを綜合すると、こうである。――
校長は、最初鼻だけをぴくりと動かしたきり、眼玉も口も動かさなかった。眼玉はテーブルの上の血書に注《そそ》がれていたが、それを読んでいるようには思えなかった。そのうちに、結んだままの口が、うがいでもする時のように、むくむく動き出した。そして、それがやっと開いたかと思うと、しゃがれた女のような声で「これは、知事閣下にも、お見せしなけりゃならんのか。」と、わかりきったことをたずねた。田上が「むろんそうです。」と答えると、またぴくりと鼻を動かし、「こんなものを知事閣下にお見せ出来ると思うのか。君らにはまるで常識がない。どうかそんなむりは言わないでくれ。」と、泣いているのか、怒っているのかわからないような声で言った。四人共、その時は、こんなのが自分たちの学校の校長だろうか、という気がして、実際なさけなかったそうである。田上が「僕たちは朝倉先生の留任さえ実現すればいいのですから、校長先生がそれを保証して下さるなら、血書の処置はお任せしましょう。」と言うと、校長は何と思ったか、急に椅子から立ち上って、四人の顔をひとりびとり念入りに見まわした。そして何度も首をふっていたが、おしまいに、永いため息をついて、「君らの非常識には全くあきれてしまう。朝倉先生の退職は県の方針できまったことだ。県の方針で一旦きまった以上、校長としてはどうにもならないではないか、それが君らにはわからんのか。」と言った。そして、もう一度永いため息をついて、どたりと椅子に腰をおろしたが、いかにも思いなやんでいるように眼をつぶって、ひとりごとのように言った。「そりゃ、朝倉先生が惜しい先生だということは私にもよくわかっている。いや、誰よりも私が一番よくわかっているつもりだ。だから、君らが先生の留任を願い出る気持には心から同情する。しかし、何
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