五年全部説、各学級代表説などが、つぎつぎに出た。そしてそのいずれについても、かなり烈しい議論が戦わされ、とりわけ五年全部説には相当多数の支持者があったが、結局、校友会委員は全校生徒を代表するし、それに血書提出の時期は一刻も早い方がいいという意見が勝ちを占めて、署名者はこれ以上ひろげないということに落ちついてしまった。そして最後に、血書はいつ誰が提出するかということが問題になったが、これについては、田上がみんなの意見をきくまえに、つぎのような希望的意見をのべた。
「総務である平尾が、ひとりだけ委員の中からぬけているのは、全校代表という点から考えて面白くない。自分はきょうのうちに極力彼を勧誘して署名をさせたいと思う。もし彼が応ずれば、むろん総務の一人として提出者の一人に加わってもらわなければならない。提出者は、総務二人のほかに、もう二人ぐらい加わってもらって、四人ぐらいが適当だと思う。しかし、万一平尾が応じなければ、三人で結構である。提出の時期は、早ければ早いほどいいし、これからすぐにも校長の私宅をたずねたい気がするが、平尾の問題があるから、きょうだけは我慢したい。とにかく、平尾が応ずる応じないにかかわらず、あすは必ず始業前に血書を校長に手渡しするつもりだ。」
 これに対しては、誰も異議を唱えるものはなかった。また、総務以外の二人の人選についても田上に一任するということになった。すると田上は即座に新賀と梅本の二人を指名した。新賀はきょうの会議に血書を持出した本人であり、梅本は平尾攻撃の急先鋒だったが、これからはもっと協調する必要がある、というのがその理由であった。みんなはほがらかな笑いごえと拍手をもってこの人選に賛意を表した。新賀も梅本も、むろん喜んで血書提出の役割をひきうけることを誓ったが、二人とも、心のどこかに何か割りきれないものを感じていた。それは、血書の作製者である次郎本人が、自分の希望からだとはいえ、あまりにも表面からかくれすぎてしまったように思えたからであった。
 田上と新賀と梅本とをのこして、みんなはすぐ解散した。血判をやったということが、今は彼らに何か大きな誇りででもあるように感じられ、階段を下りる彼らの足どりはいつも以上にはずんでいた。それにしても、血書を書いたのはいったい誰だろう、ということが、帰途についた彼らのほとんどすべての話題になったが、次郎本人と馬田と大山のほかには、むろん誰にも見当がつかなかった。次郎は出来るだけそれを秘密にして置きたかったし、馬田は次郎を英雄にするのがいやだったし、大山は新賀がわざわざ秘密にしたものを物識り顔にしゃべりちらすほど、うすっぺらな男でもなかったので、彼らと道づれをしたものも、それについてたしかな根拠のある話は何もきくことが出来なかった。そして次郎に道づれがなくなり、めいめいが自分の家に帰りつくころには、彼らの多くは、主の知れない血書のことよりか、自分自身が血判をした瞬間のことを、より鮮明に思いおこしていたのである。
 次郎は、家に帰りついた時には、いつになくつかれていた。昨日来のつづけざまの緊張が急にゆるんだせいか、変に淋しい気持にさえなっていた。彼は何も考えないで、すぐひるねをしたいと思った。しかし一方では、父の顔が見たかった。きょうの学校での出来事について、父と話がしてみたかった。で、いったん二階にあがって畳の上にねころんではみたが、すぐまた起きあがって畑に出た。
 俊売はトマト畑にしゃがんで、しきりにわき芽をつんでいた。どこかに出かけて帰って来たばかりなのか、或はこれから出かけるところなのかいつも外出の時に着る白の詰襟服にカンカン帽をかぶり、ステッキまでもっている。次郎が「ただいま」と言うと、ちょっとふりむいて、「きょうはおそかったね。」と言ったきり、わき芽をさがすのに夢中である。
「きょうは校友会の委員会だったんです。朝倉先生のことで。」
 次郎は、そう言って、俊亮のすぐわきにしゃがんだ。
「そうか。私もきょうは朝倉先生をおたずねして今帰って来たところだ。」
 次郎はおどろいたというよりも、むしろぽかんとして父の顔を見た。
 俊亮はただ微笑していた。次郎はそのうちにやっと自分をとりもどしたが、何をどうたずねていいかはまだわからなかった。父が、ゆうべのきょう、さっそく朝倉先生を訪ねたということが、彼にとってはあまりにも意外のことだったのである。
「先生にはお前もながいこと特別のお世話になっていたし、ちょっとごあいさつをしておきたいと思ってね。」
 俊亮は、トマトのしげみをのぞきこみながら、しばらくして言った。次郎は、それで、またあきれたように父の顔を見た。まさかもうお別れのごあいさつではあるまい。それにしても、「ごあいさつ」という言葉が気にかかる。父が朝倉先生の辞職
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