いんだそうだ。」
 どっと笑声が起った。それまで平尾は相変らず眼をぱちぱちさしていたが、急に立ちあがって、言った。
「僕は出来るだけ慎重《しんちょう》を期するために、言いかえると、朝倉先生に現在以上のご迷惑がかからないようにと思って、先生をおたずねしたんだ。それが先生に対する侮辱だと言われては、全く残念だ。しかし、諸君の全部がそう思っているとすると、僕がいくら弁解しても駄目だろう。僕は自分では省みて一点のやましいところもないと思うが、梅本君の要求によって、いや諸君の全部の要求によって、いさぎよく座長の席を退こう。しかし、僕が座長の席を退くことは、同時にこの会議の席を退くことを意味するんだ。なぜなら、先生を侮辱したような人間を交えてこの会議を進めることは、諸君にとって迷惑だろうと思うからだ。ただ僕は、この席を退くまえに一言諸君に言っておきたい。それは、諸君にもっと時代というものを知ってもらいたいということだ。時代は今どういう方向に動いているか、それを知らないで、ただ自分の理想だけを追うていると、われわれは、ちょうど金塊を抱いて海の底に沈むような愚を演じなければならないのだ。朝倉先生のようにすぐれた人格者でさえ……」
「ぱか! 何を言うか!」
 爆発するようなどなり声が、彼のすぐまえの席から起った。
「貴様は僕らにお説教をする気か。」
「青年はすべからく時代を超越すべし。」
「真理は、永遠だぞ!」
「卑怯者!」
「狸!」
「ひっこむなら、さっさとひっこめ!」
 そうした叫びがつぎつぎに起り、中にはもう腕まくりをしているものさえあった。
 平尾は土色になってしばらく立往生していたが、あきらめたように壇をおりると、その足でさっさと室を出ていってしまった。
 一瞬、さすがにしいんとなって、みんなは彼のうしろ姿を見おくった。すると誰かが、だしぬけに、とん狂な声で叫んだ。
「狸退散!」
 それで、また、どっと笑い声が起った。その笑い声を圧するように、新賀がどなった。
「田上! 平尾がいなくなれば君が座長だ。さっさと席につけ。」
 田上は今度は元気よく座長席についた。そして、
「さっきからの様子では、留任運動をやることだけは、もう満場一致と見ていいようだが、どうだ。」
「むろんだ!」
「賛成!」
 と叫ぶ声が方々からきこえた。
「では、これからその方法を相談する。誰か案があったら、遠慮なく出してくれ。」
「それも、もうきまっているよ。」
 いかにも冷やかすような調子でそう言ったのは馬田だった。彼は窓わくに馬乗りにまたがって、足をぶらぶらさせながら、そのしまりのない唇から舌を出したり、ひっこめたりしている。
「どうきまっているんだ。」
 と、田上が不愉快そうに彼の方を見た。
「ストライキさ。」
 馬田は田上の方を見むきもしないで答えたが、そのあと、すぐまた舌をぺろりと出した。
「いきなりストライキをやろうというのか。」
「いきなりでなくてもいいよ。しかし、どうせやるなら早い方がいいね。」
 吹き出すような笑いごえが二三ヵ所でおこった。しかし、多数は、馬田のあまりにもふざけきった調子に憤慨したらしく、むっつりしている。
 ストライキ問題は、しかし、そのあと、自然みんなの論議の中心になってしまった。意見はだいたい三つにわかれた。ストライキ即時断行論がその一つで、これは馬田を中心とする不良らしい五六名が、理論も何もなく、まるでおどかすような調子で主張した。第二はストライキ絶対反対論で、主として論陣《ろんじん》を張ったのは梅本だった。第三は、いわは中間派で、情理をつくして留任を懇請《こんせい》し、それがしりぞけられた場合にはストライキもやむを得ない、という意見であった。この意見の主張者は、とくにきまった顔ぶれではなかった。また議論としてさほどききごたえのある発言もなかった。しかしそれは多数の口で主張され、多数によって支持されていたようであった。
 そうした意見が交換されている間、次郎も新賀もふしぎに沈默を守っていた。ことに次郎は、自分の存在をなるだけ目立たせないように、注意してでもいるかのように、馬田とはちょうど反対の廊下よりの机によりかかって、しじゅう首をたれていた。梅本と馬田一派とがはげしくやりあっている最中でさえ、彼はちょっとその方をのぞいて見ただけで、すこしも興奮したようなふうはなかった。ただ彼がいくらか緊張したように見えたのは、論議もだいたいつきて、座長の田上が、「では、この問題の決をとりたいが、多数決できめてもいいのか。」と相談をかけた時であった。彼はその瞬間、急に首をもたげて田上を見、つづいて新賀を見た。そしてまさに立ち上りそうな姿勢になった。しかし、彼が立ちあがるまえに、新賀が発言したので、彼はそのまま腰をおちつけて、また首をたれた。

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