新賀は言った。
「決をとるのはまだ早い。僕はそのまえに諸君に見せたいものがあるんだ。」
 みんなの視線を一身にあつめながら、彼はどたどたと大きな靴音を立てて教壇に上った。そして座長席のわきに立つと、胸のかくしから一枚の紙を引き出し、自分の顔のまんまえにそれをひろげた。それは次郎の書いた血書だった。
「見えるか。」
 彼は血書を自分の胸のあたりまでさげ、その上からみんなを見まわした。みんなはのびあがるようにしてそれを見た。田上も座長席から首をつき出し、下からそれをのぞいた。ただ次郎だけが、いくらかほてった顔をして眼を机の上におとしていた。
「これは血で書いたものだ。遠方からは字がよく見えないだろうから、僕が読んでみよう。」
 新賀は、そう言いながら、血書をうらがえしにして自分の方に向け、一句一句力をこめてそれを読んだ。そして読み終ると、またそれをうち返しにしてみんなの方に向け、もう一度室じゅうを見まわした。
 みんなはしいんとなって一心に血書の方に眼を注いでいる。
「君が書いたれか。」
 うしろの方の窓ぎわに立っていた一人が、かなりたってからたずねた。
「僕じゃない。」
「誰だ、書いたのは。」
 今度は、次郎のすぐまえにいたひとりがたずねた。次郎は、はっとしたように顔をあげたが、すぐもとの姿勢にかえった。
「この中にいる一人が書いたんだ。しかし名前は言う必要がない。それは、これを書いた人は、これがみんなの総意だと信じきって書いたからだ。僕たちはただその人の熱意を生かせばいいんだ。」
 みんなは、探るようにおたがいに顔を見合わせたが、すぐまた血書の方に視線を集中して默りこんでいる。
「どうだ。いやしくも人間が血をもってつづった文字だ。これを生かすことに不賛成はあるまい。」
 むろん誰も異議を唱えるものはなかった。それどころか、これまでストライキ論を中心にざわついていた空気がすっかり沈静して、その底から一かたまりになった大きな力が、むくむくと盛りあがって来る、といった気配だった。
 その気配の中を、新賀は右から左に視線を走らせた。そして最後に、ただひとりわざとのようにうすら笑いをしている馬田の顔をにらみつけるように見た。馬田はすぐ眼をそらして窓のそとを見たが、そのうすら笑いは消えてはいなかった。新賀はその様子をしばらく見つめたあと、またみんなの方を見て言った。
「しかし、この血書を生かすには、一つの条件がある。その条件というのは、絶対にストライキはやらないということだ。それは、この血書を書いた人がそれを心から願っているからだ。彼は僕にこういうことを言った。――朝倉先生は暴力の否定者である。然るにストライキは一種の暴力だ。暴力の否定者である先生を暴力をもって擁護するのは、先生に恥をかかせる以外の、何ものでもない。――また、彼はこういうことを言った。――五・一五事件の軍人たちは相手の血で自分たちの目的を貫こうとした。しかしわれわれはわれわれの血でそれを貫かなければならない。――諸君は、この血書がこういう信念のもとに書かれたということを忘れてはならないのだ。つまり諸君はこの血書をほんとうに、生かすために絶対にストライキをやらないという約束をしなければならないのだ。諸君はそれを承知してくれるのか。」
「むろん承知だ。」
 色の黒い美少年の梅本がまず叫んだ。つづいて「賛成」という声が五六ヵ所から起った。
「では、賛成のものはこれに署名してくれ。僕は決して強制はしない。ほんとうにこの血書の意味を理解してくれる諸君だけの署名を求めるんだ。他のどんな手段にもたよらないで、ただ自分の血で願いとおそうという諸君だけの署名を求めるんだ。失敬だが僕がまず署名する。」
 新賀はそう言って田上のまえの教卓に血書をひろげ、年月日の書いてある真下に万年筆で署名した。それから、かくしに手をつっこんで、しきりに何かさがしていたが、やがて取り出したのは小さなペンナイフだった。彼はそれをひらくと無造作に左手のくすり指をその尖端《せんたん》でつっついた。そしてちょっと顔をしかめてその指先を見つめていたが、すぐそれを自分の名前の下におしつけた。
 彼の無造作な挙動にひきかえ、室内はまるで画のように静まりかえっていた。ただ、もしその場に非常に注意ぶかい観察者がいたとすれば、その人は、次郎が自分の眼にそっと両手をあてて涙をふいていたことと、馬田が変におちつかない眼をして、ぬすむようにみんなの顔を見まわしていたこととに、気がついたであろう。
 新賀は血書と共に、自分の万年筆とペンナイフとを教卓の上に置いたまま、教壇をおりた。そして、
「誰か半紙をもっているものがあったら二三枚くれ。ザラ半紙でもいいんだ。」
「ザラでよけりゃあ、ここに沢山ある。」
 と、田上が総務用と書いた紙挟みの
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