こは五年の教室のうちで教員室から最も遠い室だった。
みんなが集まると平尾がすぐ教壇に立って、きょうの集まりの趣旨《しゅし》をのべた。彼は最初のうち、朝倉先生に対する讃美の言葉や、その退職を遺憾《いかん》とする意味の言葉を、かなり熱のこもった調子でのべたてた。しかし、終りに近づくにつれて次第にその調子が低くなり、最後につぎのようなことを言って、壇を下った。
「とにかく、一部の委員諸君の希望もあったので、この会議をひらくことにしたが、その結果が、万一にも朝倉先生の御気持にそわないようなことになっては、先生に対してまことに申訳がないと思うから、十分|慎重《しんちょう》に考えて意見をのべてもらいたい。」
みんなは、しばらく、ひょうしぬけがしたように顔を見合わせた。が、すぐあちらこちらに私語《しご》がはじまり、それが、たちまちのうちに、ごったがえすようなそうぞうしい話声となって、室じゅうに入りみだれた。
「このざまは何だ!」
誰かが平尾の方をむいて大声でどなった。
「座長はいったい誰がやるんだ。平尾か、田上か。」
そう言ったのは新賀だった。平尾はあわてたように田上の横顔を見た。田上は、しかし、その眉の濃い、面長な顔をまっすぐ立てたまま、冷然としている。
「きょうは座長は田上がやれ!」
一番うしろの方で誰かが叫んだ。
「いや、僕はやらん。会議の進行は平尾に任してあるんだ。きょうは自由な立場でものを言う約束なんだよ。」
「じゃあ、平尾、さっさと座長席につけ!」
新賀がどなった。平尾はひきつった頬に強いて微笑をうかべながら教壇に上った。そして教卓を前にして椅子に腰をおろすと、
「じゃあ、誰からでもいいから、意見を言ってくれたまえ。」
「意見を言うまえに質問があるんだ。君は、さっき、朝倉先生のお気持がどうだとか言っていたが、そのお気持というのが、君にはわかっているのか。もしわかっているなら、はっきりそれを言ってもらいたいね。」
そう言ったのは梅本だった。奥に何かありそうなその質問の調子が、みんなの注意を彼にひきつけた。
「朝倉先生は、生徒がさわぐのを非常に心配していられるんだ。」
「さわぐというと?」
「例えば留任運動といったようなことをやることだよ。」
「どんな方法でやってもいけない、と言われるんだね。」
「そうだ。自分の進退《しんたい》は自分できめると言われるんだ。」
平尾は、ここだとばかり力をこめて答えた。梅本は、しかし、それをきき流すように、
「ところで、それは君が直接朝倉先生にきいたことかね。」
「むろんだ。」
「いつきいたんだ。」
「実はきのう、先生をおたずねしてみたんだよ。」
「君ひとりで?」
「うむ。」
「何のためにおたずねしたんだ。」
「きょうの会議をやるのに参考になるだろうと思ったからさ。」
「すると、きょうの会議のことを先生に話したんだね。」
「話したさ。それを話さなくちゃ、先生のお考えがわからないんだから。」
「先生のお考えなら、話さなくてもわかりきっているとは思わなかったのか。」
平尾は行きづまって、その狸のような口をいやに固く結んだ。
「平尾君!」
と、梅本は、いつも弁論会の時にやるように、こぶしで自分の前の机を一つたたいて、
「君は、きょうはこの会議の座長たる資格はない! 田上君と代りたまえ。」
みんなの視線が一せいに梅本に集まった。平尾もさすがにきっとなって、
「座長たる資格がない? それはどういう理由だ。」
「われわれは、先生を侮辱した人間を座長にして、先生のことを相談することは出来ないんだ。」
「僕が先生を侮辱したって?」
「侮辱したんだろう。自分でそれがわからんのか。」
「わからんよ。僕はそんなことを言われるのは全く意外だね。」
「平尾君!」
と、もう一度梅本は叫んで、つっ立ちあがった。そのひょうしに今までかけていた腰掛が大きな音を立てて、うしろにひっくりかえった。色の黒い美少年の眼は、らんらんと輝いている。
「君が朝倉先生をおたずねしたのは、先生のお気持をたしかめるためだったんじゃないか。」
「そうだよ。」
「そうすると、君は、先生が或は留任運動を喜ばれるかも知れん、と考えていたわけだろう。それが先生の人格に対する侮辱でないといえるか。」
平尾は、近眼鏡の奥で眼を神経的にぱちぱちさせるだけで、返事をしない。
「どうだ、諸君、諸君はこれを侮辱ではないと思うか。」
と、梅本はぐるりとみんなを見まわした。
「むろん侮辱だ!」
「先生を知らないにもほどがある!」
「留任運動を喜ぶような先生のために、僕らは留任運動をやろうとしているのではないんだ。」
そんな叫び声が方々からきこえた。すると誰かがまぜっかえすように、
「平尾は、朝倉先生をそんな先生だと思っているから、留任運動がやりたくな
前へ
次へ
全92ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング