ろう。おまえ自身でやぶいてすててもいいという気になれば、その血書の生臭味はもうそれで洗い流されたようなものだ。それに、いざストライキにでもなろうという場合、血書を取消したために、ものが言えないような立場になっても困るだろう。ことにおまえがストライキに反対だとすれば、なおさらのことだ。」
次郎は、きまりわるそうに血書を机の上において、しわをのばしはじめた。
「血書なんて、たいていしわくちゃになっているものだよ。そう大事にせんでもいいさ。」
俊亮は笑いながら、そう言って立ちあがったが、
「まあ何ごとも修行だと思って、思いきり自分の信ずるところをやってみるさ。自分のおだてに乗りさえしなければ、それでいいんだ。いや、自分で自分のおだてにのらない修行をするんだ、とそう思って万事にあたって行くんだよ。実際、今の時代にはそれが一番大切な修行だからね。そう思うと、朝倉先生は、お前たちのためにいい機会を作って下すったものだよ。先生としては御迷惑だろうが、この機会を生かすんだな。事件はあるいは非常にもつれるかも知れない。しかし、事件がもつれて行く間に、今言ったような修行がおまえたちに出来るとすれば、あとで先生もきっと喜んで下さるだろう。」
俊亮が階下におりると、次郎は血書をていねいにたたんで制服のかくしにしまいこんだ。そして電燈を消してすぐ蚊帳に入ったが、永いこと寝つかれなかった。それは俊三のいびきのせいばかりではなかった。血書を書く時とはまるでちがった性質の一種の興奮が、彼の心臓をいつまでもはずましていたのである。
三 決議
あくる日、次郎が学校に行くと、新賀がまちかねていたように彼を校庭の一隅の白楊《ポプラ》のかげにさそい出して、言った。
「平尾のやつ、ずるいよ、きのう、あれひとりで朝倉先生をおたずねして、何もかも話してしまったらしいんだ。」
「ふうん、――」
と、次郎もさすがにあきれたような顔をして、
「何のためにそんなことをしたんだろう。」
「そりゃあ、わかりきっているよ。留任運動がやりたくないからさ。」
「それで朝倉先生に反対してもらおうというのか。」
「そうだよ。」
「しかし、朝倉先生が反対なことは、わざわざ先生にあってたずねてみなくたって、わかっていることじゃないか。」
「それがあいつのずるいところだよ。わかっていることでも、たしかめておかないと、強くものが言えんからね。」
「いやなやつだね。それで朝倉先生をおたずねしたってこと、平尾が自分で君に話したんかい。」
「ううん、田上にきいたんだ。」
田上というのはもうひとりの総務である。
「田上はいったい、どうなんだ。やっぱり不賛成なのか。」
「いや、あいつは大丈夫だ。平尾のやり方に憤慨して僕にその話をしたぐらいだからね。」
「そうか。しかし総務の二人がそんなふうに対立しているとすると、今日の会議はどうなるんだい。やるにはやるだろうね。」
「そりゃあ、やるとも。もう田上が各部につたえてまわっているはずだ。」
「しかし、総務として、どんなふうに提案するつもりなんだろう。」
「むろん、総務案なんてものはないだろう。田上の話では、白紙でのぞむよりほかないと言っていたよ。」
次郎はちょっと考えていたが、
「しかし、会議を開きさえすれば何とかなるね。」
「そりゃなるとも。平尾なんか問題でないさ。梅本も、平尾ぐらいおれに任しとけって、そう言っていたよ。……ところで、どうしたい、血書は? もう書いたんか。」
「うむ、書いた。」
次郎は笑いながら、紙を巻きつけた左手のくすり指を新賀のまえにつき出した。新賀は、
「ほう、その指をきるんだね。」
と、感心したように見ていたが、
「書いたの、もって来なかったんか。」
「持って来たよ。」
「見せろ。」
次郎は内かくしから血書を出して新賀にわたした。新賀はそれを受取ると食い入るようにそれに見入っていたが最後に大きなため息をつきながら、それを次郎に返そうとした。次郎は、しかし、かぶりをふって、
「それは君にあずけておく。僕が書いたこと、みんなに言わないでくれ。」
新賀はちょっと考えてから、
「うむ。」
と、大きくうなずいて、血書を自分のかくしにしまいこんだ。間もなく始業の鐘が鳴って二人は教室に入ったが、次郎は新賀に血書をあずけて何かほっとした気持だった。
ひる休みごろには、全校の気分が何となくざわめき立っていた。上級生の中には、五人、十人と、あちらこちらに集まって、すでに私的に意見を交換しているらしかった。次郎は、そんな様子を心強くも不安にも感じながら、自分ではなるだけそうした集まりに近づかない工夫をしていた。
授業がすむと、校友会の委員たちは、ある者は考えぶかそうに、ある者ははしゃぎながら、二階の一番おくの教室に集まった。そ
前へ
次へ
全92ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング