言辞《げんじ》を弄《ろう》してはばからないので、他の生徒に対する悪影響が甚しいし、学校としては到底教育の責任を負うことが出来ないというのである。
 女の問題は、生徒間にはすでに知れ渡っており、その証拠を握っている生徒もあるが、周囲に及ぼす迷惑を考慮し、この際それは問題にしないことになった。
 なお、次郎に対する同情的意見を述べた先生が二人ほどあった。その一人は、次郎の学級主任の先生、もう一人は、この会議の内容をもらした某先生自身であった。しかし、次郎の保証人を納得《なっとく》させるためには全職員一致の意見でなければ工合がわるい、という校長からの希望もあり、大勢がすでにきまっていたので、二人共強いては主張しなかった。
 だいたい情報の内容は以上のようなものであったが、この情報は、三時間目の授業中、次郎が、即刻召喚《そっこくしょうかん》の紙片を受取って、教室を出て行ったことによって、もはや一点の余地を残さないものになってしまった。――即刻召喚の紙片というのは、「即刻」という大きな朱印の下に、呼び出す先生の名と呼び出される生徒の名とを記した小さな紙片でしかなかったが、それが授業の最中に給仕によって教室に持ちこまれるということは、呼び出される生徒にとって、いつも極めて重大な意義をもっていたのである。
 次郎は、教室を出るまえに、机の中の自分の持物をのこらず雑嚢にしまいこんだ。それがまたみんなの注目をひいた。彼はその雑嚢を肩にかけると、ほとんど無表情に近い顔をして生徒たちを見まわし、それから先生におじぎをして教室を出て行ったが、その様子には、先生も生徒たちも何か異様な圧迫を感じたらしく、彼の足音がきこえなくなるまで教室は水の底のように静まりかえっていた。
 次郎を呼び出したのは、学級主任の黒田先生だった。次郎は、この先生とはふだん特別の深い交渉はなかったが、現在の先生の中では一番いい先生だと思っていた。で、即刻召喚の紙片を手にした瞬間、この先生が自分の学級主任であってくれてよかった、という気がしたのだった。
 次郎の顔を見ると、黒田先生はすぐ自分の席を立って、彼を監督室の隣の室につれて行った。宝鏡先生の事件以来、この室にはいるのは四年ぶりである。テーブルには相変らず虫のくった青毛氈《あおもうせん》がかけてあり、「思無邪」と書いた正面の額も、昔どおりであった。
 二人が腰をおろしてからも、黒田先生はなかなか口をきかなかった。そして、じっとテーブルの一点を見つめていたが、二三分もたったころ、やっと思いきったように言った。
「きのうは大変な失敗をやってくれたね。」
「すみません。」
 と、次郎は眼をふせた。が、すぐ、
「しかし、あれでけりがついて却《かえ》ってよかったと思っているんです。」
「けりがついたっていうと?」
「僕、退学になるんでしょう。」
 黒田先生は眼を見はった。次郎は、その眼に出っくわすと、かえって気の毒そうに、自分の視線をおとし、
「僕、もうこないだから、この学校には居られないような気がしていたんです。」
「どうして?」
「何だが僕の良心がゆるさなかったんです。」
「良心が? 何かほかにわるいことでもしていたかね。」
「そんなことありません。僕、そんな意味で言っているんではないんです。」
「じゃあ、どうなんだ。」
「僕は――」
 と、次郎はしばらくためらっていたが、
「僕は、不正な権力の下で勉強するのが、不愉快で仕方がなかったんです。」
 黒田先生は、もう一度眼を見張った。そして永いこと次郎を見つめたあと、ふうっと大きな息を吐き、そのまま眼をつぶってしまった。
 どちらからも口をきかない時間が、おおかた五分間もつづいた。次郎は何か悲しい気がした。宝鏡先生の事件のおり、この室で朝倉先生に訓戒された時のことがいつの間にか思い出されて来た。すると、朝倉先生の澄んだ眼が、そして最後のあの険しい眼が、はっきりうかんで来た。彼は、もう声をあげて泣きたいような気持だった。
 黒田先生は、やっと自分で自分を励ますように、
「君がそんなふうに考えているんなら、私はもう何も言う事はない。いや、何も言う資格はないといった方が適当かも知れないね。先生はみんな弱い。私もむろん弱い。ほんとうに強いのは朝倉先生だけだったんだ。その先生ももう去られたし、君らも淋しいだろうね。」
 次郎の眼からは、とうとう涙がこぼれ出した。
「先生、僕、生意気言ってすみません。ゆるして下さい。」
 彼はそう言うと、テーブルに顔をふせてしまった。
「許してもらわなければならんのは、私だよ。」
 黒田先生は、いきなり手をのばして、次郎の肩をつかみながら言った。その眼にも、もう涙がにじんでいた。
 次郎はしばらくして顔をあげたが、
「先生だけにでも、僕の気持、よくわかっていただい
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