も新賀も、むしろ驚いたように次郎の顔を見つめていた。すると、次郎は、また淋しく微笑して、
「とにかく僕ひとりが犠牲《ぎせい》になれば、何もかもそれで片づくんだ。そう思うと、女の問題だろうと何だろうと構《かま》わんという気もするね。ただ僕が心配しているのは、送別会のことで君ら二人に迷惑がかかりはしないかということだ。あれは僕があくまでも全責任を負うよ。実際責任は僕にあるんだからね。そのつもりで、学校が何と言おうと、君らは頑張ってくれたまえ。」
 二人はそれに対しては何とも答えなかった。梅本は、すぐ、くってかかるように言った。
「君ひとりが犠牲になったからって、何も片づきはせんよ。僕は、もし学校に残ることが出来れば、さっそく馬田の征伐をはじめたいと思っているんだ。」
 すると新賀が、
「そうだ。そしてそのつぎは西山と曾根だ。僕はそのためになら、僕の海軍志望を棒にふってもいい。」
 次郎は一瞬、躍《おど》りあがりたいほどの興奮を覚えた。しかし、つぎの瞬間には、彼はその興奮をおさえようとして、心の底でもがいていた。彼はしばらくして言った。
「そんなこと、ばかばかしいよ。こんなちっぽけな中学校のことなんか、もう、どうだっていいんだ。僕たちには、もっと大きな仕事が待っているんだから。」
 彼は、しかし、言ってしまって何かうつろな気がした。それがまだ彼の心の奥底からの声になっていなかったことは、彼自身が一番よく知っていたのである。
 その日は、それ以上に学校に大したことも起らなかった。生徒たちは、職員会議に心をひかれながらも、授業が終るとさっさと退散した。それは、彼らの大多数に、自分たちは安全地帯にいるという自信があったせいでもあったが、また一つには、学期試験が近づいているのに、朝倉先生の問題で、誰もがその準備をおろそかにしていたせいでもあった。事件最中には、ストライキをあてにして、さわぐことだけに夢中になっていた連中ほど、今では試験が気にかかっていたのである。
 それでも、その翌朝になると、生徒たちは、やはり、いくぶん興奮した眼をして、いつもより早く学校に集まって来た。そして、誰もが職員会議の結果について知りたがった。いろんな新しい想像や臆測《おくそく》が間もなく校内にみだれ飛んだことはいうまでもない。その中には、処罰は昨日の予想を裏切って非常に重く、且《か》つ範囲も校友会の委員全部に及ぶらしい。退学は少くも五六名、停学は十名以上で、その他は謹慎《きんしん》だ、といったような、恐ろしく刺戟的なものもあった。
 しかし、そうした想像や臆測も、一時間目の授業が終ったころには、もう完全に、一つの情報によって打破られ、統一されていた。それには、昨日ほど面倒な手数をかける必要もなかったのである。というのは、その情報というのが、これまで職員会議の秘密をさぐるのに一度も失敗したことのない生徒の口から発表されたものだったからである。
 いったい日本では、中等学校以上の学校で、職員会議の内容が生徒につつぬけにならない場合は極めてまれなのであるが、それは、生徒に会議の秘密でも洩らさなければ安心して教室に出られないほど、頭と心の貧しい先生たちや、学校の中で御殿女中式の勢力争いでもやっていなけれは人生は面白くない、と心得ているような先生たちが、かなり多数だからである。次郎たちの学校も、決してその例外ではなかった。だから、ひとりの物ずきな、そして先生の弱点をよく心得ている生徒がいて、職員会議のすんだ日の夕食後にでも、散歩がてら先生の門をたたくと、彼は、煎餅でもおごってもらいながら、大した苦労もなしに、先生自身の口から、会議の内容を細大もらさすきき出すことが出来たわけなのである。
 むろんそうした生徒は、先生に、「これは君までの話だ、他の生徒には絶対にもらさないように。」と懇々《こんこん》口|留《ど》めされるのが常である。しかし、その生徒がそうした口留めを守るほど道徳的でないこともむろんである。それは、先生が職員会議の秘密について道徳的でないのと同様なのである。彼は、誰先生に直接きいて来たんだという確証を与えることによってのみ、生徒たちに喝采《かっさい》され、彼自身の功績を誇りうるということをよく知っているのである。
 さて、そうした種類の一生徒によって、全校にばらまかれた権威ある情報というのは、こうであった。
 次郎は諭旨《ゆし》退学にきまった。そのほかには処罰者はない。次郎の諭旨退学も、形の上では保証人からの願出による退学になるわけだから、正式には処罰者は一名もないことになるのである。
 次郎の諭旨退学の理由は、教師に対する反抗心が強く、すでに二年生のころから宝鏡先生に対して不遜の言動があり、最近では、配属将校に対してさえ甚しく無礼な態度をとり、しかも反国家的な
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