返事が出来なかった。彼は、急に沈痛な顔をして考えこんだ。大沢も、恭一も、道江も、しきりに首をかしげた。俊三は、大して興味はなさそうだったが、それでもやはりちょっと首をかしげた。
俊亮は、にこにこしながら、
「しかし、そういそぐことはない。あすあたりは多分学校の肚もきまるだろうから、こちらの肚もそれまでにきめて置けばいいんだ。じゃあ、それまで宿題にしておくかな。」
そう言って立ち上った。そして階段をおりようとしたが、また立ちどまつて次郎をふりかえり、
「朝倉先生には、私からすぐ手紙をかいてお願いして置くよ。この方はなるだけ早い方がいいからね。」
間もなく夕食だった。大沢は当分厄介になるつもりで来ていたし、道江もしばらくぶりだというので、いっしょに夕食によばれた。お祖母さん、お芳、それにお金ちゃんを加えて九人が、男と女とにわかれて二つの食卓を囲《かこ》んだ。次郎の問題には少しもふれず、俊亮と大沢を中心に、腹をかかえるようないろんな問答がとりかわされ、このごろにない賑《にぎ》やかな夕食だった。
夕食がすむと、次郎たちはすぐ散歩に出た。道江もいっしょだった。せんだん橋を渡り、川の土手にそって一丁ばかり上ると、その左手に、旧藩主の茶亭のあとがあり、そこの庭園は誰でも自由にはいれることになっていた。五人はその庭園にはいり、池の近くの芝生に腰をおろした。
話題は自然次郎の問題に集中された。しかし、もう誰も次郎の処分の有無を気にかけているものはなかった。道江でさえ、「小父さまがあんなお気持でいて下さるから大丈夫ね」と言い、また、「東京に行って朝倉先生のお世話になれたら、次郎さんは却っておしあわせだわ」とも言った。問題の中心は、次郎が俊亮に与えられた課題だったが、これは雲をつかむようで、みんなが始末にこまった。恭一は、
「立つ鳥はあとをにごさず、といったようなことかね。」
と、言い、大沢は、
「いや、学校側に一本釘をさしておけ、というんだろう。」
と言ったが、結局、そんな程度のぼんやりした解決以上には進展しそうになかった。
次郎本人は、その問題ではほとんど口をきかなかった。彼はむっつりして、いつも池の水ばかりを見つめていた。そして、みんなの話が行きつもどりつしている間に、ふいと立ちあがって、ひとりで池の向側の築山をのぼり、その裏側の竹林の中にはいって行った。
彼は問題をひとりで考えてみたかったし、そうでなくても、恭一と道江をまえに置いては、彼の考えは、とかくみだれがちになりそうだったのである。
竹林の中に腰をおろした彼は、うずくまるように首をたれて考えこんだ。もう日は暮れかかっており、やぶ蚊がしきりに襲って来た。彼は、しかし、それを平手でうつだけで、立ち上ろうとはしなかった。指なしの権、饅頭虎、曾根少佐、西山教頭、馬田、そうした人たちの顔がつぎつぎに彼の考えの中を往復した。そのうち、ふと、ひとりの毒々しい女の顔が浮かんで来た。それは春月亭の内儀の顔だった。と、その瞬間、ふしぎにも、彼の心にさっと明るい光が流れこんだ。それは、春月亭の問題のあとで、朝倉先生をたずね、ミケランゼロの話を聞かされたことを思い出したからだった。
「この石の中には女神がとりこにされている。私はこれを救い出さなければならない。」
そう言って、こけむした、きたない石の中から美しい女神の像を刻み出したミケランゼロの心を、父は自分に求めているのだ。父と朝倉先生とは、どうしてこうも人生に対するものの考え方の根柢《こんてい》が一致しているのだろう。そして自分は、何といういい父をもち、何というすぐれた先生を恵まれたことだろう。
彼は勢いよく立ちあがった。そして、竹林の密生した葉の間からもれる星の光を仰いだ。
「おうい、次郎君――。」
大沢の愉快などら声が、そのとき池の向こうからきこえた。
「おうい。」
と、次郎の答えも元気でほがらかだった。
「もうかえるぞうっ――」
「ようし、すぐ行く――」
五人は間もなく家に帰ったが、次郎は、恭一と道江が暗くなった道を、おりおり並んで歩くのでさえ、今はさほど苦にならなかった。
俊亮は、ちょうど朝倉先生あての手紙を書き終えて、お祖母さんが一人で涼んでいる座敷の縁《えん》に出たばかりのところだった。手紙は宛名を墨書して座敷の机の上にのせてあったが、それは俊亮の手紙にしてはめずらしく分厚なものだった。
みんなはすぐ俊亮をとりかこんだ。しかし、誰も、さっきからの課題のことを言い出すものがなかった。それは、次郎の問題をお祖母さんにきかれてはまだ悪いだろう、と察したからであった。すると、次郎がだしぬけに、
「僕、朝倉先生にこんな話をきいたことがあるんです。」
と前置して、ミケランゼロの話をし出した。そして、話し終ると、それにつ
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