いてべつに説明や感想をのべるのでもなく、ただ真剣な顔をして、じっと父の顔を見つめていたが、しばらくして思い出したように言った。
「これが父さんの宿題に対する僕の解答です。」
 大沢はじめ、恭一も、俊三も、道江も、ぽかんとして次郎の顔を見た。俊亮は、縁の柱によりかかり、かなり永いこと眼をつぶっていたが、やがて眼をひらくと言った。
「満点以上だ。心の持方としてはそれ以上の答案はあるまいね。父さんも、大たい似たようなことを考えてはいたが、どこかにまだ滓《かす》みたようなものがこびりついていたようだ。私の立場からの対立観で、相手を向こうにまわすという気が少しでも残っていると、どうも満点はとれないものだね。」
 それからまたしばらく眼をとじたあと、
「しかし、大事なのは実際の場合だよ。実際の場合に心が乱れては、女神どころか、がらくた道具も出来はしないからね。その点では、或いは父さんの方が次郎よりうわ手だかも知れんぞ。はっはっはっ。……まあ、しかし、これはその場になってみんとわからん。どうせ父さんも学校には顔を出すことになるだろうが、その時がほんとうの試験だ。」
 次郎は、もうその時には、眼をふせて、じっと縁板の一点を見つめていた。
「俊亮も、何か学校で試験があるのかい。」
 お祖母さんが、けげんそうな顔をして、ひょっくりたずねた。
 みんなが一度にふき出した。次郎は、しかし、ちょっと苦笑しただけで、またすぐ眼をふせた。

    一五 明暗交錯

 翌日、学校では、もう朝から、朝倉先生が駅で憲兵に取調べられたことや、次郎が駅からの帰りに曾根少佐に呼びつけられたことなどが、生徒間の噂の種になっていた。そしてその原因が、白鳥会員だけで催《もよお》された朝倉先生の「秘密な」送別会にあったということは、一部の生徒の次郎に対する淡い反感の種になっているらしかった。
「白鳥会で朝倉先生を独占しようなんて考えるのが、第一まちがっているよ。」
「本田は、はじめっからそんな考えでやっていたにちがいないんだ。血書を書いたことだって、新賀のほかには誰も知ったものはいなかったんだろう。」
「要するに今のさわぎは白鳥会のために起ったようなものさ。」
「白鳥会のためならまだいいが、本田個人のためだったんじゃないかな。」
「そんなことを考えると、何だかばかばかしくなって来るね。」
「しかし、もうすんだことだ。それに、あと始末は本田がひとりでつけるだろう。」
「はっはっはっ。」
 そんな会話も取り交わされていた。
 午ごろになって、職員室の掲示用の黒板に、つぎの文句が記されていた。
「本日放課後、第一会議室において緊急職員会議開催につき、事務職員以外は洩《も》れなく参集せられたし。」
 それを最初に見つけた一生徒は、鬼の首でもとったように、すぐそのことを生徒仲間につたえた。すると生徒たちはまた新しい話題で興奮しはじめた。朝倉先生を見送って、ともかくも事件が一段落ついたあとの最初の職員会議であり、それに、第一会議室が、いつも秘密を必要とする会議に使われるのを生徒たちはよく知っていたので、それが何を意味するかは、彼らにもすぐ想像がついたのである。
「いよいよ処罰会議だぜ。今度は相当きびしいかも知れんよ。」
「何しろ、曾根少佐が頑張っているからね。」
「しかし、曾根少佐は問題をあまり大きくしたくない考えだっていうじゃないか。」
「まさか。あいつにそんなやさしい考えなんかあるもんか。」
「やさしい考えからじゃないよ。それがあいつの手なんだよ。」
「手だっていうと?」
「自分が配属将校でいる間は、思想問題は大丈夫だっていうところを見せたいんだってさ。」
「ふうん。そんなことを考えているんか。じゃ処罰は案外軽いかな。」
「僕は軽いと思う。退学なんかあまりないんじゃないかな。第一、あんまりひどいことをやると、僕たちもだまっておれんからね。そうなると、また学校が困るだろう。」
「曾根少佐も、それを心配しているんだよ、きっと。」
「自分の名誉のためにか。」
「ふっふっふっ。」
「しかし、一同訓戒程度ですんだら、蟇の効用もたいしたもんだね。」
「そんなわけには行かんよ。白鳥会の秘密送別会のことは、憲兵隊が問題にしているというし、曾根少佐だって、もうどうにも出来んだろう。」
「少くとも、本田だけは危いね。血書のこともあるし。」
「あいつ、少し図《づ》にのりすぎていたんだ。仕方がないよ。」
「そのくせ、ストライキだけにはいやに反対していたんだが、あれはやっぱり朝倉先生に対する忠勤《ちゅうきん》のつもりだったかね。」
「さあ、どうだか。それも一種の手だったかも知れんぜ。」
「そうだと本田もあてはずれだね。曾根少佐は今でも本田をストライキの煽動者《せんどうしゃ》だと見ているっていうじゃないか。」
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