たように、いそいで湯ぶねを出てそれを手にとった。そしてその刃をひらいて、しばらくじっと見入っていたが、やがて指先で用心ぶかくそれをなでると、またそっともとのところに置き、何か安心したようにからだをこすりはじめた。
 夕飯をすましてからの彼は、門先をぶらぶら歩きまわったり、二階の自分の机のそばに坐りこんだりして、はた目には何かおちつかないふうに見えたが、頭の中では、血書の文句をねるのに夢中だった。簡潔で、気品があり、しかも強い感情のこもった表現がほしい。しかし、それが詩になってしまってはいけない。世間普通の人にも、すらすらと受けいれられるような文句でなければならないのだ。そう思うと、詩を作るになれた彼の頭は行きつもどりつするのだった。そのために、彼は、お芳が台所のあとかたづけを、めずらしく女中のお金ちゃんだけに任して、いそいで大巻をたずねたのも、そのあと間もなく徹太郎がやって来て、俊亮と座敷の縁で何か話しこんでいたのも、まるで知らないでいたほどだったのである。
 彼が、どうやら自分で満足するような文句をまとめあげたのは、もう真暗になった門先をぶらついていた時だった。彼は、それをノートに書きしるすために、いそいで家にはいり、階段をのぼりかけたが、その時はじめて徹太郎の来ているのに気がつき、思わず立ちどまって耳をすました。
「時勢が時勢でないと、こんなことはむしろ美しいことですがね。」
 徹太郎の声である。話はもう大よそすんだらしい口ぶりである。
「次郎がどこまで考えてそんなことをやろうとしているのか、とにかく、あとで私からよくききただしてみることにしましょう。」
「ええ、そうなすった方がいいと思います。ほっておいて世間をさわがすようなことになっても、つまりませんからね。……じゃ失礼します。」
 次郎はいそいで階段を上りながら、徹太郎叔父も、学校の先生だけあって、やはりこんな場合には事なかれ主義らしい、という気がして、ちょっとさびしかった。道江がお芳か姉の敏子(徹太郎の妻)かにしゃべったのはもうたしかであり、そのあまりなたよりなさには、むかむかと腹も立った。
 俊三はもうその時には蚊帳のなかでいびきをかいていた。
 次郎には、なぜか、俊三がにくらしくもあわれにも思えた。そして、机によりかかってじっといびきに耳をかたむけるうちに、子供のころの自分の生活に、よかれあしかれ、あんなにも探いかゝわりをもっていた肉親のひとりが、今はまったく別の世界に住んでいる。人間というものは、年月がたつにつれ、こうして次第にわかれわかれになって行くものだろうか、などと考えて、変な気持になって行った。
 しかしノートをひらいて血書の文句を書き出した時には、彼はもう一途な力強い感情におされて、徹太郎のことも、道江のことも、俊三のことも忘れていた。そして、書き終った文句を何度も何度もよみかえしたあと、足音をしのばせるようにして階下におりていったが、やがてもどって来た彼の手には、父の西洋かみそりと一枚の小皿とがにぎられていた。彼はその二つの品を机の上に置いて、しばらくそれに見入った。家が没落して売立がはじまった時、そのなかにまじっていた刀剣のことが、ふと彼の記憶によみがえって来た。すると、眼のまえの西洋かみそりが何かそぐわない、うすっぺらなもののように感じられてならなかった。しかし、そんな感じはほんの一瞬だった。彼はすぐかみそりの刃をひらいた。そして、いつ、誰に、どこできいたのか、また、それが果して定法なのかどうかはっきりしなかったが、血判や血書には、左手のくすり指の指先をすじ目に切るものだということが頭にあったので、その通りに指先をかみそりの刃にあて、おなじ左手のおや指で強く、それをおさえながら、思いきりすばやく、一寸ほど横にすべらせた。
 つめたいとも、あついともいえぬような鋭い痛みが、一瞬指先に感じられた。しかし、そのあとは何ともなかった。血も出ていない、次郎はしくじったと思った。しかし、そう思っておや指のささえをゆるめたとたん、赤黒い血が三日月形ににじみ出し、それが見る見るふくらんで、熟した葡萄のようなしずくをつくった。
 次郎はいそいでそれを小皿にうけた。つぎつぎにしたたる血が、たちまちに、小皿の中央に描いてあった藍絵の胡蝶の胴をひたし、翅《はね》をひたし、触角《しょくかく》をひたしていった。次郎は、表面張力によってやや盛りあがり気味に、真白な磁器の膚《はだ》をひたして行く自分の血を、何か美しいもののように見入った。そしてそれからおよそ三十分の後には、彼は一枚の半紙に毛筆で苦心の文句を書きあげていたが、その三十分間ほど彼にとって異様に感じられた時間はこれまでになかった。それはちょうど氷のはりつめた湖の底に炎がうずまいているような、静寂と興奮との時間であっ
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