た。
 もっとも、字があまり上手でないうえに、使いなれない毛筆を血糊にひたしての仕事だったので、濃淡が思うようにいかず、あるところはべっとりと赤黒くにじんでいるかと思うと、あるところはほとんど血とは思えないほどの黄色っぽい淡い色になっていて、全体としてはいかにも乱雑に見えた。しかし、一ヵ所も消したり書き加えたりしたところがなく、また、一字一字を見ると、下手ながらも極めて正確で、誰にも読みあやまられる心配はなかった。文句にはこうあった。

 知事閣下並に校長先生
 私たち八百の生徒は、昨今名状しがたい不安に襲われています。それは、私たちの敬愛の的である朝倉道三郎先生が突如として我校を去られようとしていることを耳にしたからであります。
 私たちにとって、朝倉先生を我校から失うことは、私たちの学徒としての生命の芽を摘《つ》みきられるにも等しい重大事であります。私たちは、これまで、朝倉先生を仰ぐことによって私たちの良心のよりどころを見出し、朝倉先生に励まされることによって愛と正義の実践に勇敢であり、そして朝倉先生と共にあることによって真に心の平和を味わうことが出来ました。朝倉先生こそは、実に我校八百の生徒にとって、かけがえのない心の燈火であり、生命の泉であったのであります。
 私たちは、朝倉先生が我校を去られる真の理由が何であるかは全く知りません。しかし、それが先生自ら私たちを教えるに足らずと考えられた結果でないことは、これまでの先生の私たちを導かれた御態度に照らしても明らかであります。また、私たちは、先生が、いかなる事情の下においても、教育家として社会から指弾《しだん》されるような言動に出られようとは、断じて信じることが出来ません。従って、私たちは、先生が我校を去らなければならない絶対の理由を発見するに苦しむものであります。
 知事閣下、並に校長先生、願わくは八百学徒の伸びゆく生命のために、また、我校の平和のために、そして、国家社会に真に正しい道義を確立するために、朝倉先生が永く我校に止まられるよう、あらゆる援助を賜わらんことを。
 右血書を以て謹んでお願いいたします。
   昭和七年六月二十七日

 次郎は、年月日を書いたあと、すぐその下に自分の姓名を書こうとしたが、それは思いとまった。もし多数の生徒たちが墨書で署名するようだったら、自分も人並に墨書する方がいいと思ったからである。
 指先の出血はまだ十分とまっていず、くるんだ紙が真赤にぬれていた。彼はもう一枚新しい紙をそのうえに巻きつけながら、窓ぎわによって、ふかぶかと夜の空気を吸った。空には無数の星が宝石のように微風にゆられていた。彼はそれを眺めているうちに、自分が血書をしたためたことが、何か遠い世界につながる神秘的な意義があるような気がし出し、昼間馬田にそれを野蛮だと非難された時、どうして反駁《はんばく》が出来なかったのだろう、と不思議に思った。
 興奮からさめるにつれて、心地よいつかれが彼の全身を襲って来た。彼は窓によりかかったまま、ついうとうととなっていた。すると、
「次郎、蚊がつきはしないか。」
 と、いつの間に上って来たのか、俊亮がすぐまえにつっ立ってじっと彼の顔を見おろしていた。
 次郎は、はっとして机の上に眼をやったが、もう自分のやったことをかくすわけにはいかなかった。俊亮は立ったまま、ちょっと微笑した。が、すぐ血書の方に視線を転じながら、
「生臭いね。」
 と、顔をしかめた。そしてしばらく机の上を見まわしたあと、
「用がすんだら、かみそりや皿はさっさと始末したらどうだい。」
 次郎は父の気持をはかりかねたが、言われるままに、かみそりと皿とをもって下におりた。そして、ながしで音を立てないように皿を洗い、それをもとのところに置くと、変にりきんだ気持になって二階に帰って来た。
 俊亮はもうその時には坐りこんで血書に眼をさらしていた。次郎もそばに行儀よく坐って、何とか言われるのを待っていた。しかし、俊亮はいつまでたってもふりむきもしない。とうとう次郎の方からたずねた。
「こんなこと、いけないんでしょうか。」
 俊亮はやっと血書から眼をはなして、
「いいかわるいか自分では考えてみなかったのか。」
「考えてみたんです。考えてみて、いいと思ったからやったんです。」
「自分でいいと思ったら、いいだろう。」
 次郎はひょうしぬけがした。
 しかし、彼は、つぎの瞬間には、自分を見つめている父の眼に、何か安心の出来ないものを感じて、かえって固くなっていた。
「しかし――」
 と、俊亮はまた血書の方に眼をやって、
「朝倉先生にはきっと叱られるね。」
「ええ、でも、それは仕方がありません。」
 俊亮はだまってうなずいた。そしてしばらく何か考えていたが、
「ところで、これがうまく成功すると
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