? しかし、それを誰も知らなかったとしたら、どうなる。」
「少くとも、君たちだけは、現にもうそれを知っているんだ!」
次郎は、それが相手に対する強制を意味し、従って彼自身矛盾を犯しているということに気がつかないのではなかった。しかし、彼は、どうにかして留任運動を阻止しようとしている平尾の気持をさっきから見ぬいており、そのつめたい理ぜめの言葉に、馬田に対するとはべつの意味で怒りを感じていたのである。
「ようし。僕も血書に賛成だ。」
新賀がその頑丈なからだをゆすぶって言った。
「僕も賛成。」
梅木がつづいて叫んだ。
「血書は僕ひとりでたくさんだ。君たちはそれに賛成ならそのあとに血判だけ押してくれ。」
次郎がやや興奮した眼を二人の方に向けて言った。すると、今までとぼけたように、そのまんまるな顔の中に眼玉をきょろつかせていた大山が、にこにこ笑いながら、
「僕も血判をおそう。本田、どうしておすのか教えてくれよ。僕は、こんなことははじめてでわからないんだからな。」
次郎と新賀と梅本とが思わす吹き出した。
馬田はその時そっぽを向いており、平尾は出っ歯の口を狸のように結んで眼をつぶっていたが、二人とも笑いもせず口もきかなかった。
二 父と子
相談はとうとうはっきりした結末がつかないままで終ってしまった。平尾は、自分は総務の一人として、他の総務ともよく相談したうえ、あす校友会の委員全部に集まってもらってこの問題を提案したい、それまでは何ごともおたがいの間だけで決定するわけにはいかない、と主張し出したのである。次郎も、新賀も、梅本もそれには正面から反対も出来ず、平尾の肚を見すかしながらも承知するよりほかなかった。馬田はにやにや笑って次郎の顔を横目で見ながら、「それがほんとうだよ。」と言い、大山はその満月のような顔をよごれた手拭でゆるゆるとふきながら、「それもよかろうな」と言った。
それでみんなは間もなく帰って行ったが、そのあと、次郎はすぐ畑に出た。なかば行きがかりからではあったが、血書のことを言い出してしまったのが、かえって彼の心をおちつかせ、自分だけはもう何もかもきまってしまったような気持に彼はなっていたのだった。
畑には、めずらしく俊三が出ていた。次郎を見ると、
「もうみんな帰った? どうきまったんだい?」
「どうもきまらないよ。あす委員が全部集まってからきめるんだ。」
「なあんだ、あいつら、わざわざここまでやって来て、そんなことか。」
二人が話していると、鶏舎の方から、もうとうに帰っていたはずの道江が走って来た。そして息をはずませながら、俊三とおなじことを次郎にたずねた。
「道江さんには関係ないことだよ。」
次郎はそっけなく答えて、草をむしりはじめた。さっき階段をのぼって来て、だしぬけに道江に話しかけた馬田の顔が、この時、ふしぎなほどはっきり彼の眼にうかんで来たのだった。
「ひどいわ。」
次郎は道江のしょげたような視線を感じた。しかし、答えない。すると俊三が、
「あす、校友会の委員が集ってきめるんだってさ。」
「そう?」
と、道江はいくらか安心したように、
「あたし、次郎さんがひとりで主謀者みたいになるんじゃないかと思って、心配していたわ。」
俊三は「ぷっ」と軽蔑するように笑い、横をむいて苦笑した。
道江は、二人がまじめに自分を相手にしてくれそうにないので、さすがに腹を立てたらしく、彼女にしてはめずらしく蓮っ葉に、
「さいなら!」
と言うと、そのまま、おもやの方にも行かず、表に出て行ってしまった。次郎は、あとを追いかけて、彼女と馬田との関係を問いただしてみたいような衝動を感じながら、草をむしっていたが、彼女のすがたが見えなくなると、
「もう誰かにしゃべったんじゃないかね。」
「何をさ?」
俊三はとぼけたような顔をしている。
「留任運動の話さ。」
「留任運動をやるってこと、道江さんにも、もう話したんかい。」
「うむ……」
次郎はまごついた。俊三は、かまわず、
「話したんなら、しゃべったってしようがないよ。さっき鶏舎で母さんに何かこそこそ言っていたが、その話かも知れないね。」
次郎はやけに草を引きぬき、旱天つづきでぼさぼさした畑の土を、あたりの青い菜っ葉にまきちらした。それは、道江や、馬田や、自分自身に対する腹立たしさからばかりではなかった。道江をまるで眼中においてない俊三の態度が、変に彼の気持をいらだたせたのである。
しかし、夕方になって風呂にひたった時には、彼はもう何もかも忘れて、一途に血書のことばかり考えていた。
湯ぶねのふちに頭をもたせて、見るともなく眼のまえの棚を見ていた彼は、ふと、その上に、父の俊亮がいつも使う西洋かみそりがのっているのに眼をとめた。彼は、めずらしいものでも見つけ
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