の二人は、何かささやきあいながら、名簿と俊亮の顔とを何度も見くらべている。父兄たちの表情はまちまちで、ある者は心配そうに俊亮の顔をのぞき、ある君は急に腕組みをして居すまいを正し、またある者は自分の顔をかくすようにして警察と憲兵隊の二人を見た。
しばらく重い沈默がつづいたあと、課長は少し興奮した調子で言った。
「ご家庭での教育のご方針については、私共から立ち入ってとやかく申上げる筋ではありませんが、今度の問題について、ご令息が根本の筋道を誤っていられないとお考えになるのは、どういうものでしょうか。先ほど私から委《くわ》しく申上げましたような事情がおわかり下されば、そうは考えられないと存じますが……」
「私は、せがれが朝倉先生をお慕い申上げるのは当然だと思いますし、またその気持に少しも濁ったところはないと信じておりますので……」
「しかし、それは朝倉教諭がりっぱな教育者であるということを前提にされてのことでしょう。」
「むろんそうです。私は、朝倉先生ほどの教育者は、今の日本には全く珍らしいとさえ考えているのです。」
「すると、私が教諭の人物について申上げたことは、嘘だとお考えでしょうか。」
俊亮はまた苦笑しながら、
「あなたが故意に嘘をおっしゃったとは考えていません。判断のちがいだと思っているのです。」
「教諭が失言したというのは、たしかな事実ですが、それについてはどうお考えですか。」
「失言というお言葉が、実は、私には腑《ふ》におちないのですが……」
「すると教諭の言ったことは正しいとお考えですね。」
「極めて正しい警世の言葉だと思っています。」
「警世のお言葉ですって?」
「そうです。国民が自分の判断力をねむらせて、権力に追随する危険を戒めた、警世の言葉だと思っているのです。」
「その奥に反軍思想があるとはお考えになりませんか。」
「そうは考えません。反暴力思想があるとは考えていますが。」
憲兵隊員が県の属官に耳うちした。すると属官がまた課長に耳うちした。課長は上気した顔をしてそれをきいていたが、二三度かるくうなずいたあと、何か決心がつかないらしく、じっと眼をおとして考えこんだ。すると平尾の父が、
「本田さん、いかがでしょう――」
と、気づまりな空気をほぐすように、いかにもわざとらしい、くだけた調子で言葉をはさんだ。
「問題の根本の見方については、いろいろ意見もありましょうが、さきほどあなたご自身でもお認めのとおり、血書とか血判とかいうことは、とにかくおだやかでありませんし、それに第一、知事さんを相手にしているという点が、中学生らしくない、非常にませたやり方で、背後に何か思想的な関係がありはしないか、というような疑問も、自然、そういうところから生じて来るのではないかと思います。で、いかがでしょう。あの陳情書だけは、ともかくも一応徹回させるように、おたがいに尽力してみましては。」
「承知いたしました。」
と、俊亮は案外あっさりと答えたが、
「ただ、さきほど課長さんにも申上げましたように、それにはある限度がありますので、その点はあらかじめご承知おき願います。」
「その限度とおっしゃる意味は?」
「実は、せがれ自身、今では、血書を書いたのを多少恥じているようにも見うけますので、本人だけなら、むしろ喜んで撤回する気になるかも知れません。しかし、あの血書は、もうせがれ一人のものではなくなっていますし、自分が書いたから自分の勝手になる、というものではありません。ことに、沢山の生徒が血判までやっているとしますと、今さら撤回するなどとせがれが言い出しましたら、どういう結果になりますか、そこいらのことは、せがれ自身に慎重に考えさせたいと思います。」
「なるほど、ご令息としては、そりゃ、すいぶん言い出しにくいことでしょう。しかし、そこを押しきってもらうことが、今の場合必要なことですし、またそれがご令息の責任ではないか、と思いますが……」
俊亮は、けげんそうに相手の顔を見た。が、すぐ、
「せがれは多分、結果をますます悪い方に導くような事はしたがらないだろうと思います。そこはせがれの良心を信じて下すってもいいと思いますが。」
今度は平尾の父がけげんそうな眼をした。そして何か言おうとしたが、ちょうどその時、道一つへだてた中学校の正門のあたりから、にわかに、さわがしいどなり声や、やけに声をはりあげた校歌の合唱がきこえて来た。
みんなの注意はその方にひかれた。中には席を立って窓から下を見おろすものもあった。花山校長もその一人だったが、その顔付は変に硬《こわ》ばって血の気がなかった。
生徒たちは、しかし、計画的に集団行動に出ているようなふうには思えなかった。彼らは校門を出ると次第にばらばらになりながら、いかにも興奮した調子でお互いに何か言い
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