のではありますまいね。」
「いいえ、決してそんなわけでは……」
「こういう場合には、多少疑わしいことでありましても、おたがいに見たまま聞いたままを、ざっくばらんに話しあってみる方が、却ってよろしいかと存じますが。」
「ごもっともです、実は、それで、私も私の知っている限りのことを申し上げたようなわけで……」
田上老人はまだ納得しかねるといった顔付をして、立ったままでいる。
すると俊亮が、今までとじていた眼を見ひらいて、微笑しながら言った。
「田上さん、そのことなら、あなたのお孫さんは恐らくご心配ありますまい。何でしたら、私、よくたしかめた上で、お知らせ申上げてもいいのですが。」
「あなたが? 失礼ですが、あなたはどなたで……」
と、田上老人は自分のまえの名簿をひきよせた。
「本田ですが……」
「ああ、本田さん。……すると、何ですか、あなたはこの件について何かくわしいことをご存じのお方で?」
「くわしいというほどのことは存じていませんが、平尾さんのおっしゃった急先鋒のうち、一人だけよく存じていますので。」
「ほう。」
と、田上老人は、眼をかがやかした。しかし、今度はその名前を発表せよとは言わない。みんなはさっきから一心に俊亮の顔を見つめている。
俊亮はにこにこしながら、
「その一人というのは私のせがれで、実は血書を書いた本人です。」
「ほう。」
田上老人はまたほうと言った。そして自分がまだ立ったままでいたのに気がついたらしく、いそいで腰をおろしたが、視線は俊亮に注いだままであった。みんなの視線も動かなかった。石のような沈默の中で、俊亮だけがあたりまえの息をしている。
「血書を書くなんて、どうもなま臭くて、私もそれを知りました時は、あまりいい気持はいたしませんでしたが、しかし、せがれにとりましては、それが精一ぱいの良心的な仕事だったらしく思われましたので、むりにやぶいて捨てろとも言いかねたのです。その血書がもとで、各方面に大変なご心配をおかけするようなことになりまして、私といたしましては、ちょっと意外にも感じ恐縮もいたしているわけです。」
俊亮は、しかし、心から恐縮しているような様子には見えなかった。
父兄たちの視線がつぎつぎに俊亮をはなれて課長と校長に注がれた。二人は、その時、頬をすれすれによせて、何かささやきあっていたが、しばらくして、課長が言った。
「本田さん、よく思いきっておっしゃっていただきました。父兄の方から進んでそういうことを打ちあけていただくということは、決して生徒の不利にはならないと存じます。その点につきましては、県といたしましても、学校といたしましても、十分考慮いたしまして、すべてを処置して行く考えでございますから、どうか御安心を願います。」
俊亮は苦笑しながら、
「私はべつに思いきってお話しいたしたわけでもなく、また、お話しいたしましたことが、せがれの不利になるとか有利になるとか、そんなことを考えていたわけでもありませんが……」
「いや、お気持はよくわかっています。」
と、課長はひとりでしきりにうなずいた。そして両手を鼻の先でもみながら、しばらく眼をおとしていたが、ふと考えついたように、
「で、いかがでしょう。本田さん。私は、この事件をおだやかに解決するには、ともかくもあの血書を撤回してもらわなければならないと思いますが、ご令息によくお話し下すって、そういう方向に導いていただくわけにはまいりますまいか。」
「それは私にはうけあいかねます。」
俊亮の言葉は、みんなをはっとさせたほど、はっきりしていた。
「むろん、課長さんのお言葉は間違いなくせがれに伝えるつもりではいますが。」
「お伝え下さるだけでなく、あなたから説得していただくというわけには参りませんか。」
「ご希望であれば説得もいたしましょう。しかし、それには限度があります。せがれの良心を眠らせるような説得は私には出来かねますので。」
「すると、あなた自身、血書を撤回することが、ご令息の良心に背くとでもお考えでしょうか。」
「いや、必ずしもそうだとは考えていません。しかし、こう申しては何ですが、今度の問題につきましては、せがれは、最初からあくまでも良心的に動いているように思えますし、その点では、親の私でさえ頭がさがるような気がいたしますので、私は、最後まで、せがれ自身の良心に訴えて行動させたいと思っているのです。むろん、まだ中学生のことで、いろいろ小さな点で思慮の足りないところもありましょう。事実、本人もあとで後悔したりしたこともあるようです。しかし根本の筋道さえ誤っていなければ、小さな過ちは却って反省の機会になっていいことだと思いますので、あまり立ち入ったことは言わない方針です。」
課長は校長と顔を見合わせた。うしろにいた警察と憲兵隊
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