あっていた。
 少しおくれて、次郎が左右から二人の生徒に扶《たす》けられるようにして出て来るのが、俊亮の眼にとまった。俊亮は席についたまま顔だけを窓の方にねじむけていたが、校門がちょうどその窓から見とおしになっていたので、それが偶然よく見えたのである。彼も、さすがにはっとしたように、椅子から立ち上って窓ぎわに行った。そして、腕組をして三人の様子を見まもりながら、何度も首をかしげた。

    八 水泳

「もうこうなれば、朝倉先生の辞職は一日も早く発表される方がいいと思うよ。」
 次郎は、まだ興奮からさめきらない眼で、じっと空を見つめながら言った。
 一心橋から二丁ほど北に行ったところに、とくべつ大きい黒松が根をはっており、その根の一部をそぎおとして、流れの方に斜めに道がついているが、そこは馬の水飼場《みずかいば》になっている。次郎たちは、その水飼場のおり口の熊笹の上に仰向けにねころんで、何か思い出しては、ぽつりぽつりと口をききあっていた。やはり次郎がまん中で、新賀が右から、梅本が左から、たえず次郎の顔をのぞくようにしている。
「そうだ。そうなると、やつらのストライキの口実もなくなるんだ。」
 梅本が言うと、
「しかし、しゃくだなあ。」
 と、新賀は両手の拳を力一ぱい空につきあげた。
 三人はそれっきり默りこんだ。
 松の梢《こずえ》にかすかに風が鳴っているのが、雲の音のように遠くきこえる。次郎は相変らず空の一点に眼をこらしていたが、
「ほんとうは、僕、ストライキがやってみたくなったんだよ。」
 新賀と梅本とは、何かにはじかれたように、半ば身をおこして次郎を見た。
 次郎は、すると、まぶしそうに眼をつぶった。が、またすぐ空を見ながら、ひとりごとのように、
「しかし、朝倉先生の辞令が出ないうちには、それがやれない。やると、先生の顔に泥をぬることになるからね。」
 新賀も梅本も、ただ顔を見合わせただけだった。
「先生に早くこの土地を去ってもらうといいんだがなあ。」
「本田!」
 と、新賀は次郎の胸に手をあててゆすぶりながら、
「君は、いったい何を考えているんだい。」
「ストライキをやる時期と方法だよ。」
「何のためのストライキだ。」
「学校浄化のためさ。朝倉先生の問題はもうすんだ。それとは関係なしにやるんだ。問題がまるでちがって来たんだから。」
「おい!」
 と新賀は怒ったように、
「君はとうとう馬田に負けたな。」
「馬田に負けた? どうして?」
 次郎はやにわにからだを起し、新賀と向きあった。
「君は、馬田が、留任運動をきっかけにストライキをやって、校長やほかの先生を排斥しようと言った時、それを不純だといって攻撃したんじゃないか。」
「むろんさ。それがどうしたんだ。」
「攻撃しておいて、今度は君がその不純なことをやろうというのか。」
「ちがう。留任運動とは関係がないんだ。僕、さっきそう言ったんじゃないか。」
「そんなこと通用せんよ。現に関係があるんだから。」
「ない。僕の気持には、それは全然ないんだ。」
「君の気持にはなくっても、留任運動に失敗したあとですぐストライキをやれば、誰だって関係があると思うよ。」
「そんなことわかってるよ。だから僕はストライキの時期と方法をどうしたらいいか、それを考えているんだ。僕は朝倉先生を見送って学校が一応落ちついてからにしたいと思ってる。もう間もなく夏休みだから、どうせ来学期さ。ゆっくり考えてやるんだ。やる以上は根強くやりたいからね。」
 そう言って次郎は微笑した。つめたい微笑だった。その微笑の底には、彼の幼ないころの血が、永いあいだの彼の努力を裏切って無気味に甦《よみがえ》っていた。正木の庭の筑山のかげで、若い地鶏が老レグホンに戦いをいどむのをじっと見つめていた時の、あの熱いとも冷めたいとも知れない血が。
「しかし、本田――」
 といつの間にか、からだをにじらせ二人の間に顔をつき出していた梅本が言った。
「それでは君の暴力否定の主張はどうなるんだ。」
「それもこれから考えてみるさ。」
「これから考えてみる?」
「うむ、ゆっくり考えてみるよ。」
「今さら、何を考えるんだ。」
「僕には、ストライキが暴力でない場合もありそうな気がするんだ。少くとも、やむを得ない、いや、必要な暴力というものが、この世の中にはありそうに思える。」
「そりゃあ、あるだろう。警官が泥棒をふん縛《しば》るんだって、そうだからね。しかし、学校を浄化するためにストライキに訴えるのは無茶だよ。」
「それ以外に方法がなくても、無茶かね。」
「ほかに方法がない事があるものか。第一、今の校長はストライキを必要とするほどの相手ではないぜ。」
 次郎は苦笑しながら、
「僕は花山校長なんかを相手にしているんではない。あんなの、ほって置いたって
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