ていた。大山の顔からは、さすがにその満月のような和やかさは失われていなかった。しかし、それでも、口を半ば開き、眼をぱちぱちさしていた様子は、決してふだんの彼ではなかった。
ただひとり、全然無表情だったといえるのは平尾だった。眼をつぶり、頬杖をついたままの彼の姿勢は、まるで次郎の言葉をきいていなかったかのようにさえ思えた。もしそれが彼の作為の結果だったとすれば、彼は、作為の技術においても、級中の首席を占めるだけの力量をそなえていたといえるであろう。
平尾とは反対に、最も目立った、しかも他の生徒たちとはまるでちがった種類の表情をしていたのは馬田だった。彼はそのしまりのない口をいよいよしまりなくしていた。これまで彼の顔にうかんでいた彼独特の冷笑は、あとかたもなく消え、眼だけが、いかにも忙しそうに、次郎と廊下の仲間たちの間を往復していた。それは、仲間たちの顔から一途に何かをよみとろうとする努力のように思われた。
次郎は、みんなの沈默の中に、なかば眼をふせ、しばらく身じろぎもしないで立っていたが、また急に馬田の方に向きなおって、
「馬田! 君は、しかし、まさかあの血書に脅迫を感じたのではあるまいね。」
今の場合、馬田にとって、これほど皮肉な質問はなかった。そうだと答えても、そうでないと答えても自分の立場がなくなるような気がするのだった。彼は答えなかった。答える代りに、両腕を組み、うそぶくように天井を見た。
「僕は、君が答えたくない気持もよくわかる。」
と、次郎は少し声をおとして、
「だから、強いて答えを求めようとは思わない。しかし、君は恐らく、脅迫されて血判をしたなどとは絶対に言いたくないだろう。僕自身としても、君の血判が君の自由な意志でおされたものだと信じたいんだ。そう信ずることが君の名誉でもあるし、僕もそれだけ責任がかるくなるわけだからね。だが、それならそれで、その時の君の血判の意味をあくまで尊重してもらいたいんだ。今になって、血書に一応の敬意を表するための血判だったなどと、いい加減なことを言うのは、断じて君の名誉ではあるまい。もし君が脅迫されて約束したというのなら仕方がない。またもし、その約束が正しくない約束だったとするなら、それも仕方がない。しかし、もしそうでなかったら、男子が一旦血をもって結んだ約束だ、あくまでそれを守りぬくのが君の名誉ではないかね。僕は同級生の一人として君に忠告する。いや、お願いする、どうか約束を守ってくれたまえ。君自身の名誉のために、そして僕たちの尊敬する朝倉先生の名誉のために、いや、朝倉先生がいつも僕たちに言われた人間としての正しさを守るために、僕は心から君にそれをお願いしたいのだ。」
次郎は、そう言いながら一心に馬田の顔の動きを見つめていた。しかし彼の気持は、彼の言葉が終る少しまえ頃から、廊下にいた生徒たちのざわめきによっていくぶんかきみだされがちであった。しかもそのざわめきは、これまでとはちがって、彼の言葉に対する反応からではなく、生徒たちの顔の動きから判断すると、廊下の、教室からは全く見えないところにその原因があるらしかった。それが一層彼の気持をかきみだしていたのである。
馬田も同様であった。彼ははじめのうち、次郎の言葉に対して非常に複雑な反応を示していたが、廊下のざわめきに気がつくと、とかくその方に気をとられがちになった。そして次郎の最後に言った言葉も、次郎が期待したほどには強く彼の心にひびかなかったらしいのである。
ざわめきの原因は、次郎の言葉が終ると、すぐわかった。
「道をあけろ。」
そんな声が、隣の教室のまえあたりから、まずきこえた。すると、入口をふさいでいた生徒たちは、いかにも不服そうな顔をしながら、つぎつぎにうしろの方を押して、いくらかの空間をつくった。
やがてあらわれたのは配属将校の曾根少佐だった。そのあとから西山教頭がはいって来た。ふたりともフェルトのスリッパをはいている。拍車のついた長靴でいつもがらがら音を立てて廊下をあるく曾根少佐としては、それは全く異例なことであった。
生徒間には、曾根少佐は「ひげ」と「がま」のあだ名でとおっていた。鼻下にすばらしく長いひげをたくわえ、その尖端をカイゼル流にもみあげたのが、うしろからでもはっきり見えるくらいなので、ほかにもひげの多い先生が何人かいたにもかかわらず、少佐赴任以来「ひげ」といえばもう少佐にきまったようなものであった。しかし、このあだ名はあまりにも平凡であり、それに第一少佐本人がそう呼ばれるのをむしろ得意にしているようなふうもあったので、有名なわりに生徒たちの興味をひかず、このごろでは「がま」の方がよほど人気があるようである。「がま」の由来は、校庭で蟇《がま》を見つけた一生徒が、しみじみそれを観察しながら、「蟇《が
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