志は全然持っていられない。僕は、おととい先生をおたずねして、直接先生の口からそれをきいて来たんだ。」
 教室の中でも、廊下でもさわがしく私語がはじまった。
「すると、平尾君が最初主張したとおり、何もやらない方が賢明だったというのか。」
 そう言ったのは梅本だった。みんなの眼が一せいに平尾をさがした。平尾は座長席のすぐ近くの机に頬杖をついて、眼をつぶっていた。
 次郎もその方に眼をやって、ちょっと答えに躊躇したが、すぐ梅本を見て答えた。
「結果からいうとその通りだ。しかし、僕たちは願書を出したことを後悔する必要はない。願書は、僕たちの希望を表明するただ一つの手段だったんだ。結果を予想して、僕たちに残されたただ一つの手段までも捨ててしまうのは、賢明どころか、道義上のなまけ者だと僕は信ずる。」
 平尾の方にまた視線が集まった。平尾は、しかし、相変らず眼をつぶったままである。
「えらいぞ、本田。」
 と、少し間をおいて、誰かが頓狂な声で野次をとばした。つづいて、
「しかし残された手段は願書だけではないぞ!」
「そうだ! ストライキという最も有効な手段を逃げる奴こそ、道義上のなまけ者だ。」
 次郎は首をねじて、しばらくその方をにらんでいたが、しまいに、からだごと向きなおって、
「ちがう! ストライキは一種の脅迫だ。脅迫は断じて正しい手段ではない。それこそ道義上のなまけ者の用うる手段だ。それに――」
 と、彼は一瞬馬田の方を見たあと、
「ストライキの煽動者にとっては、それは正しい目的のための手段でさえないんだ。彼らはたださわぎたがっている。ストライキ遊びをやりたいというのが、要するに彼らの本心なんだ。僕は、諸君が朝倉先生留任運動の美名に欺かれて、彼らの劣情の犠牲《ぎせい》にならないように、敢えてこの機会に警告する。」
「よけいなおせっかいだ。」
 馬田の相棒の一人が叫んだ。しかし、そのほかには誰も何とも言うものがなかった。それは、次郎のいった言葉に同意したというよりも、むしろ彼の気魄に気圧されているかのようであった。入学当時の彼の英雄的行為が、ここでもみんなの心理に作用していたことはいうまでもない。
 しばらく沈默がつづいた。次郎は廊下にならんでいる馬田の仲間の顔を、ひとりびとり念入りに見たあと、また教室の中心の方にむきをかえ、いくらか沈んだ調子で言った。
「しかし、今から考えると、僕たちの願書も決して完全であったとはいえない。実は、白状すると、あの願書は僕が書いたんだ。僕が書いたことを秘密にしてもらったのは、あの時新賀が説明したとおり、あの願書が僕一人の意志でなくてみんなの総意だと信じていたからだ。しかし、それは僕の思いちがいだった。何よりいけなかったのは、僕があの願書を血で書いたことだ。僕は、あれを書く時には、それが最善の道だと信じきっていた。血をもって願う、それ以上の願いようはない。諸君もこれならきっと共鳴してくれるだろう、そう僕は信じていたのだ。そして諸君が何のぞうさもなく血判をしてくれた時には、僕は実にうれしかった。僕の考えは誤っていなかった、ストライキなどという脅迫的な手段に訴えて、朝倉先生の人格をきずつけるようなことは、誰も好んではいないのだ。そう僕は思って実にうれしかったのだ。しかし、さっきからの様子を見ているうちに、僕はとんでもない思い違いをしていたことに気がついて、恥ずかしくてならない。もし僕が、あの願書を墨で書いていたとしたら、諸君は果してあの時あんなにたやすく僕の考えに同意してくれただろうか。恐らくそうではなかったろう。諸君はもっと自由にめいめいの意見を述べたにちがいないのだ。そうだとすると、僕があの願書を血で書いたということは、諸君の自由な意見を封じ、諸君の血判までを強要したということになるのだ。その証拠がきょうこの会議にはっきりあらわれている。その意味で、僕の血書はやはりストライキと同様、一種の脅迫だったのだ。脅迫によって結ばれた約束が破れるのは当然だ。そしてその結果が、たった今馬田と新賀との間に行われたような、脅迫と脅迫との競合いになるのも当然だ。僕は、諸君に、僕の無自覚によって、すべてのそうした原因を作ったことを心からあやまる。」
 静まりきった、しかし底深く動揺する海のような空気が全体を支配した。みんなの表情はまちまちだった。しかしそれは、おどろきと、あやしみと、好奇と、そしてえたいの知れない感激との、いろいろの割合における混合以外の何ものでもなかった。
 その時まで、額を両手でささえ眼をつぶったままじっと動かないでいた新賀も、いつのまにか首をさしのべ、眉根をよせて、うかがうように次郎を見つめていた。梅本は両腕を組み、のけぞり気味に首をまっすぐに立てて次郎を見ていたが、その眼は怒った人の眼のように鋭く光っ
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