と、廊下の方で二三人が一せいに叫んだ。新賀はその方にちょっと眼をやったが、すぐ、また馬田を見、割合おだやかな調子で、
「君はストライキをやれば、かならず目的が達せられると思うのか。」
「そりゃ、やってみなくちゃわからん。しかし、少くとも机の上で書いた血ぞめの文章なんかよりゃ有効だよ。」
 一瞬、新賀の顔が紅潮した。しかし、彼はそのためにひどく興奮したようには見えなかった。彼は相変らず馬田の顔をまともに見つめながら、
「じゃあ、なぜ君は血判までしてストライキをやらないという約束をしたんだ。」
「僕はそんな約束のための血判をしたんじゃない。血ぞめの文章に一応敬意を表しただけなんだ。」
「馬田!」
 と、その時、新賀のすぐうしろの方から、べつの声がきこえた。声の主は次郎だった。彼はそう叫んで立ち上ったが、自分のまんまえに新賀の尻がおっかぶさってみんなの顔が見えなかったらしく、机と机との間を泳ぐようにしてまえに出た。そして少しそり身になって両手を腰にあて、えぐるような視線を馬田の方になげた。
 みんなは片唾《かたず》をのんで彼を見まもった。彼に好意をもつものも、反感をいだくものも、彼が数日来の沈默をやぶったということに好奇の眼をかがやかしたのである。
「君は――」
 と、次郎は気味のわるいほど底にこもった声で言った。
「君は、新賀が血判をするまえにあれほど念をおして言ったことを、きいていなかったのか。」
「きいていたよ。」
 馬田はそっぽをむいて投げるように答えた。硬ばった冷笑が、しかし、彼の落着かない気持を裏切っている。
「きいていて、それをはじめから無視していたのか。」
「まあそうだね。どうせ血染の文章なんか役に立たないってこと、僕にははじめっからわかっていたんだから。」
「すると、君の血判はうその血判だったんだね。」
「血判はうそじゃないよ。血染の文章に敬意を表したのはほんとうだからね。」
「君はただそれだけのために血判をしたのか。」
「そうだよ。」
「君がいま言ってることは本気だろうね。」
「むろん本気だよ。」
「それで君はみんなを侮辱しているとは思わんのか。」
「思わんね。僕はあべこべにみんなを尊敬しているつもりなんだ。」
「尊敬している? 約束をふみにじって何が尊敬だ。」
「僕は、みんなの目的を達するようにするのが、ほんとうの尊敬だと思っているよ。」
 廊下の方から、
「そうだそうだ!」
「うまいぞ!」
「馬田、しっかり!」
 などと声援がおくられた。
 が、みんなの視線がその方にひきつけられたとたん、教室の床板にすさまじい音がして、周囲のガラス戸がびりびりとふるえた。それは新賀が今までつっ立っていた机の上からだしぬけに飛びおりた音だった。彼は飛びおりたその足で、まっすぐに馬田の方につき進んだ。そして、そのまんまえに仁王立になって、言った。
「君はいま、みんなを尊敬していると言ったね。」
「うむ、言ったよ。」
 と、馬田もほとんど無意識に立ち上った。そのひょろ長いからだが、いくぶんくねってゆれている。
「じゃあ僕はどうだ。僕も君の尊敬している一人か。」
「むろんだよ。」
「ばかにするな!」
 新賀はこぶしをふりあげ馬田をなぐろうとした。しかし、もうその時には、次郎が二人の間に割りこんでいた。彼は新賀をうしろにおしもどしながら、
「なぐるのはよせ。どんなに腹が立っても、僕らが暴力を用いたら、何もかもおしまいだ。」
「うむ。」
 と、新賀は案外おとなしくうなずいて、自分のもとの席にもどったが、いかにもぐったりしたように、そのまま眼をつぶり、両手で額をささえた。それはいつもにない彼の姿勢だった。
 次郎は、そのあと、また馬田の方に向きなおって何か言い出しそうなふうだったが、しばらく考えたあと、思いかえしたように廊下に背を向け、馬田に対したのとはまるでちがった、しみじみとした調子で言った。
「僕は諸君にあやまらなければならないことがある。僕は、やっと、今それに気がついたんだ。」
 いくらかざわつきかけていた空気が、それで、またしずかになった。
「僕たちは、いま、ストライキをやるかやらんかという問題で争っている。しかし、考えてみると、これほど無意味な争いはない。この無意味な争いの原因は――」
 言いかけると、廊下の方から誰かがまた叫んだ。
「無意味とは何だ。」
 次郎はすこし顔をねじ向けて、
「朝倉先生の留任とストライキとは全く無関係だという意味だ。」
「もっとはっきり言え。ストライキをやっても駄目だというのか。」
「むろんそうだ。」
「やってみないで、どうしてそれがわかるんだ。」
「朝倉先生の人格がわかれば、それもわかる。先生は、――」
 と、次郎は顔を正面にもどし、
「実は、われわれの願書が県庁でききとどけられても、留任する意
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