「そりゃあ、思うでしょう。」
「けんかになりはしない?」
「なるかも知れません。しかし、なったっていいんです。」
「いやね、道江のために、男同士がけんかをはじめたりしちゃあ。」
「あたし、こわいわ。」
と道江も眉根をよせ、肩をすぼめた。
次郎は、二人の言葉から、まるでちがった刺戟をうけた。敏子の言葉からはひやりとするものを感じ、道江の言葉には憐憫に似たものを感じたのである。一人の女を中にして、馬田のような男と争っている自分を想像すると、たまらないほどいやになるが、また一方では、道江という女が、自分というものをどこかに置き忘れているような性格の持主であるだけに、放っておくに忍びないような気もするのだった。彼は二つの感情を急には始末しかねて、だまりこんでしまった。
「あたし、やっぱりまわり道した方がいいと思うわ。」
道江は敏子を見て言った。
「そうね、――」
と、敏子はちょっと考えて、
「でも、それは次郎さんがおっしゃるように、かえっていけないことになるかも知れないわ。いっそ、ここのうちから学校に通うことにしては、どう?」
道江も次郎も眼を見張った。
「ここからだと、次郎さんに見張っていただくにしても、かどが立たないでいいわ。次郎さんが毎日、橋を渡ったりしたんでは、何ていったって変ですものね。」
「でも、いいかしら、こちらは?」
「こちらは大丈夫よ。わけをお話ししたらきっと許して下さるわ。みんなで道ちゃんを大巻の子にしたいって、いつもおっしゃっているぐらいだから。きょうお留守でないと、すぐお願いしてみるんだけど、お父さんもお母さんもご親類のご法事でお出かけなの。」
「義兄《にい》さんは?」
「もう間もなく帰るころだわ。」
そう言っているところへ、ちょうど徹太郎が帰って来た。茶の間にはいって来て次郎たちの顔を見ると、「よう」と声をかけ、すぐ服をぬいで真裸になり、井戸端に行ってじゃあじゃあ水をかぶっていたが、まもなくぬれタオルを両肩にかけてもどって来た。そして、敏子に向って、
「このごろは、次郎君とも道江さんとも、いっしょに飯をくう機会がなかったようだね。きょうは老人たちも留守だし、若いものだけでどうだい。」
「そう? じゃあ、何にも出来ませんけれど、あたしすぐお支度しますわ。……道ちゃん、さっきからのこと、自分で義兄さんにお話してみたらどう?」
敏子はそう言って立って行った。
「話って何だい。」
徹太郎は大して気にもとめないような調子でたずねた。道江は顔を赤らめてぐずぐずしている。
「まさか一生の大事ではあるまいね。」
徹太郎は、そう言って笑った。次郎はその瞬間ちょっと固い表情になったが、すぐ自分も笑いながら、道江に代って始終を話した。話しているうちに、彼は自分の言葉の調子が次第に烈しくなって行くのをどうすることも出来なかった。
徹太郎はきき終って、
「ふうむ――」
と、うなるように言ったが、
「そりゃあ、道江さんがここから学校に通うのはいい。そうする方が一番いいと思うんだ。しかし、学校の行きかえりに、次郎君が道江さんの用心棒になるのはどうかと思うね。」
次郎は、ぐらぐらと目まいがするような感じだった。徹太郎は、いつになく沈んだ調子で、
「第一、君は今そんなことに気をつかっている時ではないだろう。君の学校の問題は決して容易ではないようだぜ。まだ噂だけで、はっきりしたことはきかないが、もう警察や憲兵隊が動き出しているというんじゃないか。」
次郎は、朝倉先生の家をあれほど重くるしい気持になって出て来ながら、馬田と道江のうしろ姿を見た瞬間から、学校の問題がまるで自分の念頭から去ってしまっていたことに気がついて、愕然《がくぜん》となった。
ついこないだ、朝倉先生のことで道江と話しあった時、道江の自分に対する心づかいを、あれほど無造作に、――考えようでは侮辱とも思えるほどの無造作な態度で退けた自分が、きょうは、たとえわずかな時間にせよ、道江の問題に夢中になって、朝倉先生のことをまるで忘れてしまっている。何という矛盾だろう。いや、何という軽薄さだろう。
彼は、自信を失った人のように、力なく首をたれた。徹太郎叔父に対しても、道江に対しても、恥ずかしさで胸がいっぱいである。
「何しろ、朝倉先生の退職の理由が理由だし、君たちの行動を当局では極力警戒しているらしいんだ。万一ストライキにでもなったら大変だぜ。」
「ストライキには、僕、絶対に反対するつもりです。」
次郎はやっとそれだけ答えた。ストライキ反対の理由が、当局のためでなくて朝倉先生のためだ、ということをつけ加えたかったが、まだそれを言うだけに気持がおちついていなかったのである。
「それならいいけれど、――」
と、徹太郎はちょっと考えてから、
「しかし、昨日お父
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