さんにきいたんだが、君は血書を書いたっていうじゃないか。」
「ええ。……書きました。」
「それがきっと大きな問題になると思うね。」
「僕はストライキをやらないためにあれを書いたんです。みんなもその条件であれを出すことにきめたんです。」
「しかし、ストライキになってしまったら、君の考えとはまるで反対の目的で書かれたことになりそうだね。」
「勝手にそう思うなら、仕方がありません。」
「主謀者と見られてもいいというのかね。」
「よくはないんです。しかし、仕方がないでしょう。」
次郎の調子は少しとがっていた。道江の問題から遠ざかるにつれて、彼は次第に元気をとりもどして来たのだった。徹太郎は、しかし、心配そうに、
「君、やけになっているんではないかね。」
「やけになんかなりません。しかし、自分で正しいことをして退学されても、ちっとも恥ずかしいことはないと思っているんです。」
「ふむ。」と、徹太郎は感心したようにうなずいたが、「しかし、少し考えが足りなかったとは思わないかね。」
「思っています。あんなもの、何の役にも立たないってこと、あとになって気がついたんです。」
「うむ。しかし、無理もないね。役所というところを君らは全く知らないんだから。」
「僕はそんな意味で考えが足りなかったとは思っていないんです。役所は正しいことを通すのがあたりまえでしょう。」
「うむ、それで?」
「それで僕たちが正しい願いだと思った事を役所に出すの、あたりまえです。考えが足りないことなんか、ちっともありません。役所がだめだから正しい願いでも、慮して出さないで置こうかなんて考える人があったら、その人こそ考えが足りないと僕は思うんです。」
次郎は、もうすっかり、いつもの彼をとりもどしていた。
「なるほど。これは痛いところを一本やられた。僕もいつの間にか現実主義者になってしまっていたわけか。ははは。ところで、君の考えが足りなかったというのは、すると、どういう点かね。」
「僕、きょう――」と、次郎は、また急に眼を伏せて、「学校のかえりに朝倉先生をおたずねしてみたんです。そして、僕たちの願いをかりに県庁が許してくれても、それで先生が辞職を思いとまられることはない、ということがはっきりしたんです。先生としては、それがあたりまえです。僕、そのことにちっとも気がついていなかったんです。」
「うむ。……なるほど。」
「僕、一所懸命で血書を書いたんですが――」
と、次郎はすこし声をふるわせながら、
「それは朝倉先生に恥をかかせるだけだったんです。それに、もしそれがあべこべにストライキの口火みたいになったりすると……」
次郎の声は、ひとりでにつまってしまった。
「うむ、君の気持はよくわかった。じゃあ、君はこれからストライキ食いとめに全力をそそぐんだね。道江さんは、ここから学校に通うことにすれば大丈夫だよ。土手を通らなくったって、ほかに道もあるし、馬田もそんなまわり道まではやって来まい。ねえ、道江さん。」
「ええ、まさか。」
と、道江は笑ったが、すぐ真顔になり、
「次郎さん、ほんとにストライキのこと頑張って下さいね。あたし、血書のことちっとも知らなかったけれど、今きいてびっくりしたわ。それでストライキの主謀者にされちゃあ、つまらないんですもの。」
次郎は何か物足りない気がしながら、それでも、いつもの道江とはかなりちがった道江をその言葉に見出して、だまってうなずいた。すると、また道江が言った。
「あたしのことは、もうほんとに大丈夫よ。これまで、あたし、あんまりのんきだったと思うの。次郎さんのお話をきいて、それに気がついたわ。女も、自分のことぐらい自分で始末するようにならないと、だめね。」
次郎はうれしいというよりは、何か驚きに似たものを感じた。彼は、これまで、道江の口から、そうした自己反省的な言葉を一度もきいたことがなかったのである。
それから話は次郎の学校の問題を中心に、いろいろのことに飛んで行った。朝倉先生の門のあたりに、もう私服の刑事がうろついているらしい、という次郎の話から、だんだんと花が咲いて、徹太郎は、ナチス独逸やソ連の例などをひき、「軍国主義と独裁政治と秘密探偵とは切っても切れないものだが、日本も今にそんな国になるかも知れない。」とか、「多数の日本人は、今では政党の腐敗にこりて、官僚政治や軍人政治を歓迎しているようだが、今にきっと後悔する時が来るだろう。」とか、また、「教育の軍隊化は教育の自殺だと思うが、教育者自身の中にかえってそれを喜んでいる者がある。それは、規律という口実の下に、生徒を安易に統御することが出来るからだ。」とか、そういった意味のことを、熱心に説いてきかせた。しかし、そうした話は、道江にはむろんのこと、次郎にも、まださほど痛切には響かなかった
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