った。
「それで、道江さん、どうするつもりなんだい。これから。」
 次郎は、詰問《きつもん》するようにたずねた。
「一心橋を渡らないで帰ることにするわ。少しまわり道をすればいいんだから。」
「逃げてさえいりゃあ、いいという気なんだな。」
「だって、それよりほかにないでしょう。」
 次郎はだまって朝顔の鉢に眼をやった。しぼんだ花が、だらりと、つるにくっついているのが、いやに彼の気持をいらだたせた。すると、
「次郎さんが女でしたら、どうなさる?――」
 と、敏子が微笑しながら、
「あたし、やっぱりそっと逃げている方が一番いいと思いますけれど。」
 敏子の言葉つきには、道江と同じ意味のことを言うにしても、どことはなしに知性的なひらめきがあった。次郎には、それがはっきり感じられた。それだけに、彼の道江に対する腹立たしさは一層つのるのであった。彼はいかにも不服そうに、しばらく敏子の顔を見つめていたが、
「僕は、女にも、もっと戦う気持があっていいと思うんです。」
「戦う気持なら、そりゃあ女にだってあるわ。」
「じゃあ、戦えばいいんでしょう。逃げてばかりいないで。」
「だって――」
 と、今度は道江が眉根をよせて、
「あたし、そんなこと出来ないわ。」
「どうして?」
「どうしてって、負けることわかっているじゃありませんか。男と女ですもの。」
「ばかだな、道江さんは。」
 と、次郎はなげるように言ったが、
「僕、道江さんを、腕力で馬田に対抗させようなんて、そんなこと考えているんじゃないよ。」
「では、どうしたらいいの?」
 次郎はそっぽを向いて答えなかった。彼女は、馬田に対して、純潔な処女としての烈しい憤りどころか、自分に侮辱を加えた当の相手としてさえ、さほどの憎しみを感じていないのではないか。もし感じているとすれば、そんなよそごとのような答えが出来るはずがない。そう考えると、道江が馬田を「千ちゃん」という親しげな名で呼んでいることまでが腹立たしくなって来た。
「そりゃあ、事をあら立てれば、いくらでも手はあると思うの。だけど、同じ村に住んでいては、そうもいかないし、……」
 と、敏子は、ちょっと間をおいて、
「第一、道江だってそんなことをしては、かえって恥ずかしい思いをしなければならないでしょう。」
「道江さんには、ちっとも恥ずかしいことなんかないじゃありませんか。」
「そうはいかないわ。」
「どうしてです。」
 次郎は、むきになった。敏子は笑って、
「どうしてだか、あたしにもわからないわ。だけど、世間は、いたずらをした男よりか、いたずらをされた女の方に、よけいにけちをつけたがるものなのよ。そんなことでお嫁にも行けないでいる人があるってこと、次郎さんはご存じない?」
 次郎は、そんな実例があるかどうかはよく知らなかった。しかし、敏子の言っている意味はよくわかった。そして、そうであればあるほど、いよいよ馬田を許しておくのが不都合だという気がした。
「すると、馬田はこのままほっておくつもりですか。」
「こないだ、重田の父から、千ちゃんのお父さんに、気をつけていただくように、話してもらってはありますの。」
「しかし、そんなこと、何の役にも立たないじゃありませんか。きょうも平気で待伏せしていたっていうんだったら。」
「ええ。でも、そんなことよりほかに、どうにもしようがないわ。」
「しかし、馬田をどうもしないで、ただ逃げまわっていたんではだめですよ。」
 次郎は、そう言って、視線を道江の方に転じながら、
「もし、馬田もまわり道したら、道江さんはどうする?」
「こまるわ、あたし。」
 道江はただしょげきった顔をするだけだった。次郎は舌打ちしたくなるのをこらえながら、
「僕は、道江さんが、どうせ馬田にねらわれているんだから、堂々とあたりまえの道を通る方がいいと思うね。」
「そうかしら。」
「まわり道なんかして、いたずらされたら、よけい世間にけちをつけられるよ。」
 道江は答えないで敏子の顔を見た。敏子は、
「それもそうね。」
 と、何度もうなずいた。そして、
「同じクラスの人が、あの村から一人でも学校に通っていれば、毎日道づれが出来るんだけれどねえ。……まさか、次郎さんに待ちあわしていただくわけにもいくまいし。……」
 次郎はすこし顔をあからめた。が、すぐ思いついたように、
「僕、道づれは出来ないけど、見張りならやります。」
「見張りって、どうするの?」
「僕、馬田と同じクラスですから、毎日いっしょに帰ろうと思えば帰れるんです。」
「千ちゃんの方を見張るの? でも、橋から先はだめじゃない?」
「僕も橋を渡って様子を見ていればいいんでしょう。あれから村の入口までは見通しだから、大丈夫ですよ。」
「毎日そんなことが出来て? 千ちゃん、きっと変に思うでしょう。」
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