の中に、砂地をふむ靴音がざくざくと異様に高くひびいた。そのほかには何の物音もきこえない。
しまりのない口を半ばひらいたまま、ぽかんとして次郎のうしろ姿を見おくっていた馬田は、次郎が十間以上も遠ざかったころ、つぶやくように「畜生!」と叫んだ。そして帽子をふりあげて、力まかせに自分の股をもう一度なぐりつけた。
次郎の耳にもその音はきこえた。しかし、彼はふりむかなかった。そして、もうとうに見えなくなっている道江のあとを追うように、路をいそいだ。
道江の家は、馬田と同じく橋を渡った向こうの村にある。彼女が学校の帰りに、大巻や本田に用があって、橋を渡らないでまっすぐこちらの土手を行くことはしばしばだが、きょうの様子は決してただごとではない。彼女は、或いは毎日のように馬田に学校の帰りをおびやかされているのではあるまいか。次郎は、ついこないだ自分の家の階段の上で、道江と馬田が出っくわした時のことを思いうかべながら、そんなふうに考えた。
家に帰りつくと、すぐ彼は、道江が来てはいないかと思って、鶏舎の方まで行ってそれとなく彼女をさがした。しかし、来たような様子はなかった。で、彼はすぐその足で大巻をたずねた。
大巻の家は彼の家から一丁とはへだたっていない。槇《まき》の立木をそのままくねらせた風変りな門をくぐると、生垣がつづいている。次郎は、その生垣のすき間から茶の間の方をのぞいて見た。すると、道江と姉の敏子とが、こちら向きに顔をならべているのが見えた。二人とも、縁板に足をなげ出し、障子をすっかり取りはらった敷居の上に尻をおちつけている。おりおりうなずきあったり、眉根をよせたりして、しきりに何か話しあっているが、声はききとれない。次郎にとって案外だったのは、道江の顔にちっとも興奮した様子が見えず、眉根をよせても、すぐそのあとから笑いに似た表情がもれていることだった。
次郎は思いきって枝折戸《しおりど》のところまで行き、その上から眼だけをのぞかせて、声をかけた。
「叔母さん、はいってもいいんですか?」
敏子は、叔母さんと呼ばれるにはまだあまりにもわかかったが、次郎は徹太郎を叔父さんと呼ぶ関係上、そう呼びならわしているのである。
「あら、次郎さん。……かまわないわ、そこからはいっていらっしゃい。」
枝折戸は手で押すとわけなく開いた。次郎は、行儀よく二列にならんでいる朝顔鉢の間を通って、縁側に腰をかけると、ぬすむように道江の顔をのぞいた。
「次郎さん、今お帰り?」
と、道江は、しかし平気な顔をしている。
「たった今。僕、道具をうちに置くと、すぐ来たんだよ。」
「そう? あたしもついさっき来たばかりなの。」
「僕、知っていたんだ。道江さんがこちらの土手を通るのを見ていたんだから。」
「あら、そう?」
と、道江はちょっと眼を見張って、
「どこから見ていたの?」
「すぐうしろからさ。二丁ぐらいはなれていたかな。」
「あらっ!」
と、道江は顔を真赤にしながら、
「じゃあ、千ちゃんのいたずら見ていたのね。」
千太郎というのが馬田の名前なのである。
「いたずら? 僕、馬田がどんないたずらをしていたか知らないよ。僕は、馬田が橋のところに立って道江さんが走って行くのを眺めていたので、変だと思っただけさ。」
次郎は何でもないような調子でそう言いながら、メスをあてられるまえの、ひやひやした気持で道江の答えをまった。しかし、道江が答えるまえに、敏子が口をはさんだ。
「千ちゃんのいたずらは、きょうだけではないらしいの。」
そう言って彼女が説明したところによると、馬田のいたずらは、もうきょうで三度目で、いつも一心橋の向こうの土手のかげにねころんだりして、道江の帰りを待伏せている。最初の時は、だしぬけに彼女を呼びとめて手紙を渡した。道江がすぐそれを投げすてると、彼はあわててそれをひろいながら、何かおどかすようなことを言った。二度目は、しつこく道江のそばにくっついて歩きながら、いろんないやらしいことを言い、村の入口近くになっていきなり彼女の手を握ろうとしたが、彼女は大声を立てて逃げた。そしてきょうは三度目だが、道江の方で警戒していて、馬田のいるのがわかったので、すぐ橋を引きかえしてこちらに逃げて来た、というのである。
道江は敏子が話している間、さほど深刻な表情もしていなかった。次郎はそれが物足りなくもあり、腹立たしくもあった。彼の家の二階で馬田と出っくわした時の様子から判断して、彼女が馬田をひどくきらっていることだけはたしかである。しかし、ただ馬田という人間をきらっているというだけではたよりない。こうしたことについては、女性の立場から、とりわけ純潔な処女の立場から、たえがたいほどの侮辱と憤りとを感じなければならないはずである。彼にはそう思えてならないのだ
前へ
次へ
全92ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング