だけているらしく、襟が首の両がわにはね出し、腰にあてた左手のうしろに裾がたくれあがっている。
次郎は思わず立ちどまった。馬田と言葉をかわすのが、きょうはとくべついやな気がするのだった。しかし、彼はかくれる気にはなれなかった。かくれたりするのは、相手が馬田であるだけに、よけい卑屈なように思えたのである。
彼は立ちどまったまま、しばらくじっと馬田のうしろ姿を見つめていた。すると馬田は、わしづかみにしていた帽子をふりあげて、つづけざまに二三度、つよく自分の股をなぐりつけた。それは、彼が何かやりそこないをしたり、しゃくにさわったりする時に、よくやるくせなのである。
次郎は、ふしぎにも思い、いくらか滑稽にも感じながら、歩き出そうとした。が、そのとき馬田のほかにもう一人、彼の眼にうつった人影があった。それは、土手のずっと向こうの方を小走りに走って行く女学生の姿であった。その制服姿は、もううしろから見たのではちょっと誰だか判断がつきかねるほど遠ざかっていたが、次郎にはそれが道江だということが一目でわかった。
次郎のふみ出した足はひとりでにもとにもどった。彼は棒立ちになったまま、道江から馬田へ、馬田から道江へと、何度も視線を往復させた。そして最後に唾をごくりと飲み、自分を落ちつけるためにかなりの努力を払ったあと、わざとのように足音を立てて歩き出した。
馬田には、しかし、次郎の足音がきこえなかったらしい。彼は相変らず道江のうしろ姿を、見おくっていた。そして、もう一度帽子で股をなぐりつけたが、そのあと「ちえっ」と舌うちしながら、道を横ぎって茶店の中にはいって行った。次郎との距離は、もうその時には、わずか二三間しかなかったが、やはり首をねじって道江の姿を追っていたせいか、次郎の近づいたのにはまるで気がつかなかったらしい。
次郎は、顔を真正面にむけたまま、茶店のまえをとおった。針金で全身をしばられているような変に固い気持だった。店の中の様子はまるで見えなかったし、馬田がどのへんにいるかは、むろんわからなかった。ただ、店先に近い水桶の底に、半透明に光って沈んでいる何本かのところてん[#「ところてん」に傍点]が、かすかに彼の眼をかすめただけであった。
彼は、自分の方から馬田に言葉をかける気にはまるでなれなかったが、しかし、馬田の方から言葉をかけられることは、十分覚悟もしていたし、心のどこかでは、むしろ期待もしていた。ところが、茶店のまえをとおり過ぎて四五間行っても、誰も声をかけるものがなかった。彼は安心とも失望ともつかぬ変な気持になり、われしらずうしろをふりむいた。
すると、馬田が茶店のかど口に立って、こちらを見ていた。そのしまりのない口は冷笑でゆがんでいる。次郎は、しかたなしに立ちどまった。
二人は、かなり永いこと、無言のまま顔を見あっていた。どちらからも歩みよろうとも、言葉をかけようともしない。次郎は、しかし、そのうちに、いつまでもそうしているのがばかばかしくなって来た。彼は思いきって馬田に背を向けようとした。すると、馬田がとうとう口をきった。
「本田、ずるいぞ。」
「何がずるいんだ。」
と、次郎は、また馬田の方にまともに向きなおった。
「僕がここにいること、君は知っていたんだろう。」
「知っていたさ。」
次郎はごまかさなかった。ごまかすどころか、そう答えることによって、皮肉な喜びをさえ味わっていたのである。
「知っていて、なぜだまって通りぬけるんだ。」
「用がないからさ。」
「なに、用がないから?」
馬田は、左肩をまえにつき出し、両肱をいからせながら、次郎の方によって来た。帽子はやはり右手にわしづかみにしたままである。
次郎はだまって馬田の近づいて来るのを見ていた。馬田は、次郎から二三歩のところで立ちどまったが、その左肩はまだつき出したままだった。
「用がないからって知らん顔するのは失敬じゃないか。」
次郎は返事をする代りに、穴のあくほど馬田の顔を見つめた。馬田は、その眼に出っくわすと、ちょっとたじろいたふうだったが、口だけは元気よく、
「失敬だとは思わんのか。」
次郎は、それでも返事をしない。視線はやはり馬田の眼に一直線に注がれたままである。
馬田も、それっきり口をきかなかった。二人は、かなり永いこと、にらみあったまま突っ立っていた。次郎が視線も手足も微動《びどう》もさせなかったのに反して、馬田の視線はたえず波うっており、その手足はいつももじもじと動いていた。
馬田の視線がとうとう横にそれた。同時に、「ふふん」とあざけるような息が彼の鼻をもれた。
次郎は、それでも一心に彼の顔を見つめていたが、急に、何と思ったか、くるりと向きをかえ、彼を置き去りにして、すたすたと歩き出した。
松の木の間をもるひっそりした日ざし
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