しかし、私はうれしいんだよ。私のために血書まで書いてくれる教え子がいるのかと思うと。」
次郎は、これまでにも、しばしば、自分の全く予期しない言葉を朝倉先生の口からきいて驚くことがあった。しかし、今の言葉ほど彼を驚かした言葉はなかった。これまでは、次郎が自分の考えに裏書してもらえると思っている時に、かえってそれを否定されたり、何か得意になっている時に、きびしい反省を要求されたりする場合が多かった。今のはまるでその逆だったということが、彼にとっては、この上もない驚きだったのである。
彼のこの驚きは、同時に、目がしらのあつくなるような感激でもあった。彼はうつむいたまま、縁板についた手を、まるで女の子みたようにもじもじさした。朝倉先生はそれを見まもりながら、「君のお父さんは、君のやったことを生ぐさいと言っていられたが、なるほど生ぐさいといえば生ぐさい。たしかに思慮の足りないやり方だし、それに文明的ではないからね。しかし人間の真実な気持というものは、そのあらわれ方がどうであろうと、やはりうれしいものだよ。私はそれを味わうだけは素直《すなお》に味わいたいんだ。むろん私には私の行く道があるし、君の真実な気持を味わったからって、その道まで変えるわけにはいかないがね。」
次郎は感激と失望の旋風《せんぷう》の中に、やっと身をささえているだけだった。あふれて来る涙が膝の上につっぱった腕をすべって、まだらに縁板をぬらした。
「それはそうと――」
と、朝倉先生はわざと次郎から眼をそらしながら、
「学校の様子はどうかね。血書はやはり出したのか。」
「ええ……出しました。」
「君自身で?」
「いいえ、総務二人に新賀と梅本とが代表になったんです。」
「むろん校長先生に出したんだろうね。」
「ええ。しかし、もう県庁でも見ているんでしょう。校長先生が県庁にそれをもって行かれたそうですから。」
「そうか。」
と、朝倉先生はしばらく考えこんだ。それから、伸びあがるようにして、生垣ごしに門の方を見、何度も首をふっていたが、
「そうか。じゃあ君はきょうここに来るんじゃなかったね。今度のことがすっかり片づくまでは、これからも君は来ない方がいいよ。君ばかりじゃない、新賀や梅本やそのほかの連中も同じだ。君のお父さんにも、当分お出で下さらんように言っておいてくれたまえ。」
「どうしてです。」
次郎は、まだ涙のすっかりかわききれない眼を見はってたずねた。
「今の時代は、やたらに犬ばかりがふえて行く時代だからね。実は、この家のまえあたりにも、きょうの昼頃から背広を着た犬がうろつき出したらしいよ。」
朝倉先生の声は低かったが、めずらしく憤りにみちた声だった。次郎は、さっき自分が街角に立って考えている時、変にじろじろ自分の顔を見て、二度ほどそばを通りぬけた四十近くの男のことを思い起した。
五 道江をめぐって
次郎は、まもなく、せきたてられるようにして、朝倉先生の門を出た。門を出るとすぐ、彼はまえうしろを見まわした。それから、曲り角のところまで来て左右を見、もう一度朝倉先生の門の方をふりかえったが、来しなに自分の顔をのぞいた男は、もうどこにも見えなかった。
日はまだかなり高かった。かわいた砂地の照りかえしが眼にぎらついて、頭のしんが痛いようだった。彼は、何も考える気力がなく、ただいらいらした気持で町はずれまで来た。
町はずれからは松並木の土手が広々とした青田のなかをうねってつづいている。左は、ほぼ五六間ほどの川で、向こう岸もやはり松並木の土手である。旧藩時代のさる名高い土木家が、北山の水を町にひくために開鑿《かいさく》した水路だそうだが、いつも探さ一二尺ほどの清冽《せいれつ》な水が、かなりな速度で、白砂の上を走っている。その水は町に流れ入る直前に直角にまがって一丁ほど東に流れ、もう一度直角に南にまがって、町はずれの橋の下をくぐっているのであるが、その角のあたりには、背丈《せたけ》ぐらいの渕が出来ており、夏になると、このへんの子供たちは、よくそこで水をあびる。土手をとおって通学している中学生の中にも、学校のかえり途には、子供たちにまじって水をあびて行くものが少くはない。次郎もおりおりその仲間に加わる一人だが、きょうは、とくべつ暑かったにもかかわらず、そこを見むきもしないで通りぬけてしまった。それから五六分も行くと、一心橋という橋がかかっており、道をへだてて、駄菓子やところてんなどを売る小さな茶店がある。次郎は、その半丁ほど手まえに来たとき、今までうつむきがちになっていた顔をあげて、ふと向こうを見た。すると、橋のたもとの大きな松の木かげに、帽子をわしづかみにして向こうむきに立っている一人の中学生が眼にとまった。馬田である。制服のボタンをすっかりはずして胸をは
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