行くのだった。しかし、そうした自己反省の苦しみは、彼にとってはそうめずらしいことではなかった。彼は中学入学以来、とりわけ白鳥会入会後は、絶えず自己反省の苦しみを味わって来た、といっても言いすぎではなかったのである。だから、もしそれに朝倉先生の問題が直接結びついていなかったとすれば、彼は、きょう学校で、同級生たちにあやしまれるほど暗い顔はしていなかったかも知れない。彼を絶望に近いほどの気持にさそいこんで行ったのは、何といっても、朝倉先生の辞任が決定的であるということに気がついたことであった。彼はそれを思うと、もう何も考える力がなかった。幼いころ、乳母のお浜にわかれたあとのあのうつろな気持、母に死別れたあとのあの萎《しな》えるような気持、それがそのまま現実となって身にせまって来るような感じがして、きょうは朝から誰とも口をきく気になれなかったのである。
 街角に立って考えこんでいた次郎は、思いきったように道を左にとった。
 朝倉先生の家の玄関はひっそりしていた。案内を乞うと、裏口から奥さんがたすきがけのまま出て来て、
「まあ、本田さん、しばらくでしたわね。さあどうぞ。先生は書斎ですわ。」
 次郎は、強いていつもの通りの気安さをよそおって、靴のひもをといた。
「昨日はお父さんがいらっして下すって、きれいなお卵をたくさんいただきましたわ……鶏の方も、本田さん毎日お手伝い?」
「ええ、ときどき。」
 次郎は廊下をとおって書斎に行った。朝倉先生は机の上に巻紙をひろげてしきりに手紙を書いていた。もう五六通書きあげたらしく、封をしたのが机のすみに重ねてあった。次郎が敷居のすぐ近くに坐ってお辞儀をすると、
「やあ、いらっしゃい。……ついでにこれだけ書いてしまうから、ちょっと失敬するよ。」
 次郎は縁側ににじり出て、あぐらをかき、ぼんやり庭を眺めた。午後三時の日が、庭隅の夏蜜柑の葉を銀色にてらしているのが、いやにまぶしかった。
 五六分もたつと、朝倉先生は手紙を書き終えて、自分も縁側に出て来た。
「昨日はお父さんにいいものをいただいてありがとう。……君は当分来ないのかと思っていたが、よく来てくれたね。」
「先生、僕、申しわけないことをしてしまいました。」
 次郎は急いで膝を正し、縁板に両手をついた。
「血書のことが気になるのか。」
 と、朝倉先生は、ちょっと思案《しあん》していたが、

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