しかし、私はうれしいんだよ。私のために血書まで書いてくれる教え子がいるのかと思うと。」
次郎は、これまでにも、しばしば、自分の全く予期しない言葉を朝倉先生の口からきいて驚くことがあった。しかし、今の言葉ほど彼を驚かした言葉はなかった。これまでは、次郎が自分の考えに裏書してもらえると思っている時に、かえってそれを否定されたり、何か得意になっている時に、きびしい反省を要求されたりする場合が多かった。今のはまるでその逆だったということが、彼にとっては、この上もない驚きだったのである。
彼のこの驚きは、同時に、目がしらのあつくなるような感激でもあった。彼はうつむいたまま、縁板についた手を、まるで女の子みたようにもじもじさした。朝倉先生はそれを見まもりながら、「君のお父さんは、君のやったことを生ぐさいと言っていられたが、なるほど生ぐさいといえば生ぐさい。たしかに思慮の足りないやり方だし、それに文明的ではないからね。しかし人間の真実な気持というものは、そのあらわれ方がどうであろうと、やはりうれしいものだよ。私はそれを味わうだけは素直《すなお》に味わいたいんだ。むろん私には私の行く道があるし、君の真実な気持を味わったからって、その道まで変えるわけにはいかないがね。」
次郎は感激と失望の旋風《せんぷう》の中に、やっと身をささえているだけだった。あふれて来る涙が膝の上につっぱった腕をすべって、まだらに縁板をぬらした。
「それはそうと――」
と、朝倉先生はわざと次郎から眼をそらしながら、
「学校の様子はどうかね。血書はやはり出したのか。」
「ええ……出しました。」
「君自身で?」
「いいえ、総務二人に新賀と梅本とが代表になったんです。」
「むろん校長先生に出したんだろうね。」
「ええ。しかし、もう県庁でも見ているんでしょう。校長先生が県庁にそれをもって行かれたそうですから。」
「そうか。」
と、朝倉先生はしばらく考えこんだ。それから、伸びあがるようにして、生垣ごしに門の方を見、何度も首をふっていたが、
「そうか。じゃあ君はきょうここに来るんじゃなかったね。今度のことがすっかり片づくまでは、これからも君は来ない方がいいよ。君ばかりじゃない、新賀や梅本やそのほかの連中も同じだ。君のお父さんにも、当分お出で下さらんように言っておいてくれたまえ。」
「どうしてです。」
次郎は、まだ
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