「ふふん。」
馬田はあざけるように笑った。
馬田は、実は昨日委員会が終ったあと、いつになく気がむしゃくしゃして家に帰って行ったのだった。次郎がみんなのどぎもをぬくような血書を書いたということが第一|癪《しゃく》だったうえに、自分もついそれに署名しなければならないはめになり、いかにも次郎の尻馬に乗せられたような恰好になってしまったのが、何としても腹におさまりかねていたのである。で、夕食をすましたら、すぐいつもの仲間にどこかに集ってもらい、血書に何とかけちをつける一方、全校をあすにもストライキに導く計画を相談する肚でいた。ところが、食卓について不機嫌に箸をとっているうちに、ふとなぜ新賀はきょうみんなに次郎が血書を書いたことを秘密にしたのだろう、という疑問が起った。この疑問は、ふしぎに彼の気持を明るくした。というのは、彼は彼なりにそれに判断を下し、何だか次郎の弱点がつかめたように思ったからである。次郎は、自分から言い出したてまえ、どうなり血書を書くには書いたが、書いたあとで、事件の主謀者と見られるのがこわくなり、新賀に自分が書いたことを秘密にするという条件でそれを渡したにちがいない。そう彼は判断したのだった。そして、この判断はいよいよ彼を上機嫌にした。血書が大きな問題になればなるほど、次郎はしょげるにちがいない。血書にけちをつけるのも面白いが、それを出来るだけ大げさな問題にして、次郎がいよいよしょげるのを見るのはなお一層面白いことだ。ストライキはどうせ早かれおそかれ放っておいても始まることだし、何も自分が先に立ってあせることはない。彼は、そんなふうに考えて、ひとりでほくそ笑んだ。そして、きょうは、彼にしてはめずらしく早く登校して、それとなく次郎の様子に注意していたが、次郎の様子は、彼の判断を十分に裏書しているように思えたので、彼は内心ますます得意になっていたのである。
しかし、彼は、血書が次郎によって書かれたということを誰にも発表する気にまだなれなかった。それは、彼の自尊心や競争意識が何ということなしにそれを許さない、というだけではなかった。彼にとって大事なことは、ストライキの場合のことだったが、万一にも、それを発表したために、次郎が捨鉢《すてばち》になり、進んでストライキの主導権をにぎるような結果になってしまっては、つまらない。次郎は徹底的にやっつけなければならな
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