のも、私の経験からだよ。実を言うと、私もわかい頃はかなりの英雄主義者でね、自分で自分のお調子にのって、今から考えると、まるで意味のない、ひとりよがりの義侠心を発揮したものだよ。その結果、先祖伝来の家屋敷も手放してしまうし、せっかくはじめた酒屋も番頭に食われてしまうといった工合で、お祖母さんをはじめ、おまえたちにも、ひどく難儀をさせたものさ。こう言うと、私が今になって貧乏したのを悔《くや》んでいるようにきこえるかも知れないが、そうじゃない。問題は、貧乏したことでなくて、貧乏するに至った原因だ。つまり、私自身のその頃の人間が問題なんだよ。夜中に眼をさましてその頃のことを思い出したりすると、全くいやになるね。」
次郎は、父にもそんな悩みがあるのかと不思議な気がした。同時に、その悩みを正直にうちあけて、自分をさとしてくれる気持に、これまでとはちがった父を見出して、胸がいっぱいになるようだった。俊亮はつづけて言った。
「世間には、若いうちは功名心に燃えるぐらいでなくちゃあ駄目だと言う人もある。しかし、私はそう思わない。ことに今のような時代には、そういう考え方は禁物だ。静かに、理知的にものを考えて、極端に言うと、つめたい機械のように道理に従って行く、そういう人間がひとりでも多くなることが、この狂いかけた時代を救う道だよ。むろん私は人間の感情を何もかも否定はしない。おまえたちが朝倉先生を慕《した》う気持なんか実に尊い感情だよ。道理とりっぱに道づれの出来る感情だからね。しかしその尊い感情も、それに功名心がくっつくと、すぐしみが出来る。しみぐらいですめばいいが、次第にそれが生地《きじ》みたいになってしまうから、危いんだよ。」
「お父さん、僕――」
と、次郎はやにわに、まだ机の上にひろげたままになっていた血書をわしづかみにして、
「こんなもの出すの、もうよします。」
彼はすぐそれをやぶきそうにした。
「まて!」
俊亮はおさえつけるように言って、
「おまえは、今日来た友達に、血書を書くことを約束したんではないかね。」
「約束しました。」
「その約束が取消せるのか。」
次郎は考えた。自分から言い出しておいてそれを取消すのは、自分の立場はとにかくとして、留任運動そのものに水をさすようなものであった。
「取消せまい。」
と、俊亮は念を押すように言ったが、
「いや、取消す必要もないだ
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