まえが自分で気づかないうちに、血書に何か英雄的な誇りを感じているように思えてならないんだ。血書なんていうものは、元来誇るべきものではない。人間の冷静な理知に訴えるだけの力のない人が、窮余《きゅうよ》の策《さく》として用いる手段だからね。それに誇りを感ずるなんて考えてみると滑稽だよ。いや、滑稽ですめば結構だが、その誇りがだんだん昂じて来ると、おしまいには、問答無用で総理大臣にピストルをつきつけるようなことにもなりかねないんだ。自分で自分のお調子にのるのは恐ろしいことだよ。」
 次郎は、血書のことを思いついてそれを書き終るまでの自分の心の動きを、あらためてこまかに反省してみた。すると父の言っていることに何か否定の出来ないものがあるような気がし出した。しかもこの反省は、次第に彼を彼の子供の時代にまで誘いこんで行ったのである。そこには、がむしゃらな反抗や、子供らしくない策略などといっしょに、ほめられたさの英雄的行為や芝居じみた親孝行などが、長い行列をつくっていた。父は自分のことを何もかも知っている。自分ではもうとうに克服《こくふく》し得たつもりの弱点でも、それがまだ少しでも尾をひいている限り、父の眼にははっきりとうつるのだ。そう思って彼はひとりでにうなだれてしまった。
 しばらく沈默がつづいた。机の上の枕時計はもう十二時をまわっている。俊亮はそれに眼をやったが、べつに驚いたふうもなく、またゆっくりと口をきき出した。
「おまえは、もう、人のおだてにのるほど無思慮ではない。それはたしかだ。その点では私はおまえを絶対に信じてもいいと思っている。だが、その程度では、まだ人間がほんとうに一本立になったとはいえないんだ。ほんとうに一本立になった人間は、人のおだてに乗らないだけでなく、自分のおだてにものらない人間だよ。私はおまえにそういう人間になってもらいたいと思っている。英雄主義流行の時代には、おまえたちのような若いものには、それはなかなかむずかしいことだが、しかし、そういう時代であればこそ、私は一層おまえにそれを望むんだ。わかるかね。私のこの気持が?」
「わかります。」
 俊亮は、次郎がいつの間にか、きちんと膝を折って坐っているのに気がついた。
「そう窮屈にならんでもいい。」
 彼はそう言って次郎にあぐらをかかせ、天井のない、すすけた屋根裏を見まわしていたが、
「私がこんなことを言う
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