ろう。おまえ自身でやぶいてすててもいいという気になれば、その血書の生臭味はもうそれで洗い流されたようなものだ。それに、いざストライキにでもなろうという場合、血書を取消したために、ものが言えないような立場になっても困るだろう。ことにおまえがストライキに反対だとすれば、なおさらのことだ。」
 次郎は、きまりわるそうに血書を机の上において、しわをのばしはじめた。
「血書なんて、たいていしわくちゃになっているものだよ。そう大事にせんでもいいさ。」
 俊亮は笑いながら、そう言って立ちあがったが、
「まあ何ごとも修行だと思って、思いきり自分の信ずるところをやってみるさ。自分のおだてに乗りさえしなければ、それでいいんだ。いや、自分で自分のおだてにのらない修行をするんだ、とそう思って万事にあたって行くんだよ。実際、今の時代にはそれが一番大切な修行だからね。そう思うと、朝倉先生は、お前たちのためにいい機会を作って下すったものだよ。先生としては御迷惑だろうが、この機会を生かすんだな。事件はあるいは非常にもつれるかも知れない。しかし、事件がもつれて行く間に、今言ったような修行がおまえたちに出来るとすれば、あとで先生もきっと喜んで下さるだろう。」
 俊亮が階下におりると、次郎は血書をていねいにたたんで制服のかくしにしまいこんだ。そして電燈を消してすぐ蚊帳に入ったが、永いこと寝つかれなかった。それは俊三のいびきのせいばかりではなかった。血書を書く時とはまるでちがった性質の一種の興奮が、彼の心臓をいつまでもはずましていたのである。

    三 決議

 あくる日、次郎が学校に行くと、新賀がまちかねていたように彼を校庭の一隅の白楊《ポプラ》のかげにさそい出して、言った。
「平尾のやつ、ずるいよ、きのう、あれひとりで朝倉先生をおたずねして、何もかも話してしまったらしいんだ。」
「ふうん、――」
 と、次郎もさすがにあきれたような顔をして、
「何のためにそんなことをしたんだろう。」
「そりゃあ、わかりきっているよ。留任運動がやりたくないからさ。」
「それで朝倉先生に反対してもらおうというのか。」
「そうだよ。」
「しかし、朝倉先生が反対なことは、わざわざ先生にあってたずねてみなくたって、わかっていることじゃないか。」
「それがあいつのずるいところだよ。わかっていることでも、たしかめておかないと、強
前へ 次へ
全184ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング