「どうしてお父さんはそんなことを仰しゃるんです。」
「人間というものは、功名心のためなら自殺さえしかねないものだからね。」
次郎には、ますますわけがわからなかった。俊亮は微笑しながら、
「むろん私は、おまえの血書を不純だと断定しているわけではない。しかし、血書なんか書く人の中には、血書の目的に興奮しているよりか、血書そのものに興奮している人が、よくあるものだよ。つまり血書を書くことに変な誇りを感じるんだね。そういう人にかぎって、自分の血書を何か神聖なもののように考え、血書さえ書けば世間は何でもきいてくれると思いたがるものだ。おまえに全然そんな気持がないと言いきれるかね。」
次郎は考えこんだ。しかし、どんなに考えてみても、自分が功名心に支配されて血書を書いたような気はしなかった。
「それだけは僕を信じて下すってもいいと思います。」
彼はきっぱりとそう答えた。
俊亮は、次郎の答えに満足なのか不満なのか、不得要領な顔をして、
「じゃあ、まあ、それはそれでいいとして、おまえの希望どおりにならなかった時はどうする?」
「あきらめるよりほかありません。」
「あきらめられるかね。」
「だってほかに仕方がないんです。」
「しかし、これはおまえ一人の問題ではないね。おまえはあきらめても、みんながあきらめなかったらどうする。」
「みんなにも、あきらめるように言います。」
「みんなはそれで承知するかね。」
「それはわかりません。」
「おまえもそれには自信がないだろう。」
次郎はだまりこむより仕方がなかった。俊亮はしみじみとした調子になって、
「時の勢いというものは、恐ろしいものだよ。五・一五事件もそうだったが、今度のおまえたちの問題も、どうせ行くところまで行くだろう。結局ストライキになるかも知れないね。」
「それは絶対にさけるつもりです。」
「さけるつもりでもさけられないよ。」
「まじめな五年生が五六人も結束すれば、さけられると思います。」
「その五六人というのは、留任運動の主唱者ではないかね。」
「ええ。ですからその五六人が結束すれば、きっと……」
「時の勢いというものは、一度出来てしまえば、それを作った人にもどうにも出来ないものだよ。現に五・一五がそうだろう。政党の腐敗を憤り、軍人が腐敗した政党と結んで政治に関係するのを快く思わなかった人たちは決して乱暴なことを企《たく》ら
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