というが、たといつまらん役人でも、いやつまらん役人であれはあるほど、血書をつきつけられてそれを默殺するだけの勇気はあるまい。彼にはそんなふうにも思えるのだった。それは、満州事変このかた、軍部に対する血書の歎願といったようなものが青年の間に流行し、それが新聞に発表されるごとに、たいてい役人がきまって感激的な感想をもらしていたのを、よく知っていたからであったのかも知れない。
俊亮は、彼の気持にはとんちゃくなしに、
「しかし、せっかく書いたものをほごにするにも及ぶまい。まあ出すだけは出してみるさ。すこしなまぐさいだけで、べつにわるいことではないからな。まあ、しかし、これという返事は得られないものだと思った方がいいね。」
「まるで返事もしないって、そんなことがありますか。」
「そりゃあ、あるとも。多分学校といっしょになって秘密に葬《ほうむ》ろうとするだろうね。」
「秘密になんか出来っこありません。生徒の中に署名するものが何人もあるんですから。」
「役人の秘密というのは、誰でも知っていることを知らん顔することなんだよ。ははは。」
俊亮は声をたてて笑った。次郎は、にこりともしないで、父の顔を見つめた。
「そこでと、――」
と、俊亮はすぐ真顔になって、
「いよいよ相手にされなかった場合、どうする? 引っこみがつかなくなって、困りはしないかね。」
「そうなれば、困ります。」
「困るだろう。ことにおまえが一人でやる仕事でないとすると。」
次郎は、ぴしりと胸をたたかれたような気がした。
「多数の力を借りて事を起そうとする場合には、だから、よほど慎重でないといけないんだ。さっきおまえは十分考えたうえで決心したようなことを言っていたが、そうでもなかったようだね。」
「僕は、血書をそんな弱いものだとは思っていなかったんです。」
「ふむ――」
と、俊亮はちょっと考えたが、
「血書を出せば朝倉先生の留任はきっと出来る、と思っていたんだね。」
「ええ。たいてい出来ると思っていました。」
「今では、どうだい。」
「今でも、その希望はすてません。僕は成功すると思っているんです。」
「ふむ。」
俊亮はまた考えた。それから、何か思いきったように、
「もし私が、おまえの血書に不純なものがあると言ったら怒るだろうね。」
次郎にとっては、全く意外な質問だった。彼はあきれたように父の顔を見ながら、
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