思っているかね。」
「成功させます。」
次郎はきおい立って答えた。俊亮は微笑しながら、
「しかし相手は役人だよ。日本の役人は中学生なんか相手にしてくれないんだぜ。」
次郎は、学校の卒業式に訓辞をよみにやって来る役人以外の役人をほとんど知らなかったが、その役人たちは、考えてみると、自分たちとはあまりにもかけはなれた存在のようだった。彼は今さらのようにそれを思って、何か心細い気がした。
「それに――」
と、俊亮は少し声をおとして、
「大巻の叔父さんの話では、朝倉先生の辞職の原因は五・一五事件の軍人を非難したからだっていうじゃないか。」
「ええ、しかし朝倉先生の言われたことは正しいんでしょう。」
「そりゃ正しいとも。たしかに正しいよ。」
「正しくってもいけないんですか。」
「正しいことで役人が動く世の中なら問題はないさ。しかし、床の上を歩かないでいつも天井にぶらさがっているような今どきの役人では、そうはいかないよ。」
次郎には、床だの天井だのという言葉の意味がよくのみこめなくて、きょとんとしていた。
「つまり日本の役人は、権力という天井にぶらさがって、床の上をあるく国民の迷惑なんかおかまいなしに、足をぶらぶらさしているようなもんだよ。」
次郎は思わず吹き出した。
「ところで、その権力というのが、昔はだいたい上役にあったものだが、次第に政党にうつり、今では軍人にうつろうとしている。ほかのことならとにかく、自分たちのぶらさがる天井のことだから、役人たちはよくそれを知っているんだ。今ごろは多分、古い天井の棧《さん》に一方の手をかけたまま、もう一方の手で新しい天井の棧に飛びついていることだろう。苦しい芸当さ。はたから見ていると、みじめでもあり、気の毒でもある。しかし、それを苦しいともみじめだとも思わないで、かえって得意になっでいるのが今の役人だよ。そんな役人を相手に、一中学生が血書なんか書いてみたって、何の役にも立つものではない。ことに、それが新しい権力に楯《たて》つくようなことを言った先生の弁護とあってはね。」
次郎は、かつて小役人をしたことのある父の役人観を面白半分にきいていたが、おしまいに自分の血書があまりにも過小に評価されたような気がして不満だった。いやしくも一人の人間が血を流してつづった願いだ。それがまるで無視されるという道理はない。実は相手が役人ではだめだ
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