からである。
 指先の出血はまだ十分とまっていず、くるんだ紙が真赤にぬれていた。彼はもう一枚新しい紙をそのうえに巻きつけながら、窓ぎわによって、ふかぶかと夜の空気を吸った。空には無数の星が宝石のように微風にゆられていた。彼はそれを眺めているうちに、自分が血書をしたためたことが、何か遠い世界につながる神秘的な意義があるような気がし出し、昼間馬田にそれを野蛮だと非難された時、どうして反駁《はんばく》が出来なかったのだろう、と不思議に思った。
 興奮からさめるにつれて、心地よいつかれが彼の全身を襲って来た。彼は窓によりかかったまま、ついうとうととなっていた。すると、
「次郎、蚊がつきはしないか。」
 と、いつの間に上って来たのか、俊亮がすぐまえにつっ立ってじっと彼の顔を見おろしていた。
 次郎は、はっとして机の上に眼をやったが、もう自分のやったことをかくすわけにはいかなかった。俊亮は立ったまま、ちょっと微笑した。が、すぐ血書の方に視線を転じながら、
「生臭いね。」
 と、顔をしかめた。そしてしばらく机の上を見まわしたあと、
「用がすんだら、かみそりや皿はさっさと始末したらどうだい。」
 次郎は父の気持をはかりかねたが、言われるままに、かみそりと皿とをもって下におりた。そして、ながしで音を立てないように皿を洗い、それをもとのところに置くと、変にりきんだ気持になって二階に帰って来た。
 俊亮はもうその時には坐りこんで血書に眼をさらしていた。次郎もそばに行儀よく坐って、何とか言われるのを待っていた。しかし、俊亮はいつまでたってもふりむきもしない。とうとう次郎の方からたずねた。
「こんなこと、いけないんでしょうか。」
 俊亮はやっと血書から眼をはなして、
「いいかわるいか自分では考えてみなかったのか。」
「考えてみたんです。考えてみて、いいと思ったからやったんです。」
「自分でいいと思ったら、いいだろう。」
 次郎はひょうしぬけがした。
 しかし、彼は、つぎの瞬間には、自分を見つめている父の眼に、何か安心の出来ないものを感じて、かえって固くなっていた。
「しかし――」
 と、俊亮はまた血書の方に眼をやって、
「朝倉先生にはきっと叱られるね。」
「ええ、でも、それは仕方がありません。」
 俊亮はだまってうなずいた。そしてしばらく何か考えていたが、
「ところで、これがうまく成功すると
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