の予期したものとは全くちがった眼であったとしても、いや、ちがった眼であればあるほど、それを最後まで凝視することが、いまは彼の宿命ともいうべきものだったのである。
 先生の眼は次第に遠ざかった。険しい眼なのか、温かい眼なのか、そしてその視線がどこに注がれているのかさえ、もうまるで判別がつかないほど遠ざかった。けれども、次郎の眼は一心にそれを追った。
 最後に次郎は、男の顔とも女の顔とも見わけのつかない二つの顔が、線路のゆるやかなカーヴのうえで次第にかすめ取られ、ついに全く消えうせたのを見た。
 彼は、それでも、まだ、茫然《ぼうぜん》として列車のあとを見おくっていた。帽子と手拭とをにぎっていた彼の両手は、もう、だらりと柵の上にたれていた。
 彼が柵をおりたのは、列挙が町はずれの小さな鉄橋を渡りおえて全くその影を没してから、大方二分近くもたったあとのことであった。
 生徒たちの群は、もうその時にはほとんど散っていた。そして、がらんとなった空地に、配属将校の曾根少佐が、四五人の生徒を相手に何か立ち話をしていた。次郎は見たくないものを見たような気がした。それは、生徒の一人が馬田だということに気がついたからであった。
 曾根少佐は馬田たちと話しながら、眼だけはたえず次郎の方に注いでいるらしかった。次郎は、まだその時まで左手ににぎったままでいた手拭を、あらためて腰にさげ、帽子をかぶって、服装をととのえたあと、曾根少佐の方に近づいて挙手の礼をした。少佐はすぐに答礼したが、いつもの歯をむき出したあいそ笑いはしなかった。そして次郎がそばを通りぬけようとすると、
「あっ、本田、ちょっと待合室で待っていてくれないか。用があるんだ。今すぐ行くからね。」
 と、いかにも急に用事を思い出したかのような調子で言った。
 次郎は、不快というよりか、何か不潔な感じがした。しかし、強いてこばむことも出来ず、すぐ待合室に行って空いた席に腰をおろした。
 腰をおろした彼は、曾根少佐の用事はいったい何だろうと考えた。馬田との立ち話もいくらか気になった。しかし、そんなことよりも彼にとって大事だったのは、朝倉先生の最後の眼だった。その眼がすべてを押しのけて、彼の眼底にちらつき出した。
 険しい眼だった。朝倉先生の眼とは思えないほどつめたい、険しい眼だった。それは訣別《けつべつ》の悲哀を物語る眼だったのか。断じてそ
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