んなものではない。先生の眼が、そんなことで、あんなにつめたく、あんなに険しくなろうとは、とうてい想像も出来ないことなのだ。
ではあの眼は何を意味する眼だったのか。――彼は急に、あの時の自分の仕草を省みて、ひやりとした。
飛びあがりもの! ただ自分を眼立たせたいためばかりに、ひとり列をはなれて軽業師のような真似をしていた飛びあがりもの! そんなことは、馬田のような生徒でもめったにやらないことではないか。白鳥会員として自分はいったいこれまで何をして来たのだ。ご本尊の朝倉先生のお見送りをするというのに、このざまはいったいどうしたことなのだ。
彼はそう考えて、自分が今何のために待合室のベンチに腰をおろしているのかさえ忘れていた。
すると、うしろから軽く彼の肩をたたいたものがあった。はっとしてふりかえると、曾根少佐が、その大きな口に真白な前歯を見せて立っていた。
「きょうはどうしても君にたずねて置かなくちゃならんことがある。しかし、こんなところでは工合がわるい。もう一度学校に引きかえしてもらうか、それとも、わしの家に来てもらうか、どちらでもいいんだが……」
「学校の方がいいんです。」
次郎は少佐がまだ言葉をきらないうちに答えた。
「そうか、しかし、学校だと、今からじゃかえって目立つぞ。」
「目立ってはわるいんですか。」
「わしはかまわんが、君が……」
「僕もかまわんです。」
次郎は何かやけくそなような気持になって答えた。
「そうか、じゃあ、学校に行こう。」
二人は待合室を出た。一丁ほど、どちらからも口をきかないで歩いていたが、少佐はすぐ近くの街角を指さしながら、
「わしの家は、あれからはいって五分ほどのところだがね。どうだい、わざわざ学校まで行かんでも、わしの家に来ては。学校ではもうお茶ものめんし、それに今頃は小使が職員室を掃除しているころだろう。」
次郎は、少佐が何で自分をそれほど自宅につれて行きたがるのか、わからなかった。それには何かいやしい魂胆《こんたん》があるのではないかと思った。で、是が非でも学校に引きかえしたいという気でいた。しかし、また一方では、皮肉とも好奇心ともつかぬ一種の感情がうごいていた。それに、自分がもし近い将来に、学校革新のために戦う機会が来るとすれば、少佐が何を考え、何を生徒に要求しようとしているのか、その本心を出来るだけくわしく知っ
前へ
次へ
全184ページ中148ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング