のさわがしさの中に、ひとりで淋しさを味わっていた。
生徒たちの中には、いつの間に用意したのか、小旗などをもっているものもあった。彼らは、もうさっきからそれをふりまわして、兵隊でも送る時のようにはしゃいでいた。それが彼を一層さびしくさせた。彼は、自分が小旗を用意しなかったことを悔《くや》む気になど少しもなれなかった。しんみりと、落ちついて、ふかく物を考えながら先生を見送りたい。彼はそんな気持で一ぱいだった。
きっかり三時。あと五分。先生ももう歩廊に出られたにちがいない。そう思って彼は上りの歩廊に眼を走らせた。しかし、そこは彼の位置からはかなり遠かった。ただ手荷物をさげた沢山の人がこみあっているのが見えるだけだった。
まもなく列車がすべりこんだ。上りの歩廊は、その列車のかげにかくれて、もうまるで見えない。機関車が威圧《いあつ》するようにこちらをにらんで、大きな息をはいている。
彼は、その機関車に眼をすえているうちに、ふと、もうこのまま先生と視線をあわす機会がないのではないか、という気がした。むろん先生は、車窓から顔を出して生徒たちにあいさつされるにちがいない。だから、自分の方から先生のお顔が見えることはたしかである。しかし、それだけでは物足りない。先生にも自分の方を見てもらいたいのだ。それは何も、自分がここで先生を見おくっているのを認めてもらいたいためではない。そんなことはどうでもいいことだが、ただ、先生の眼と自分の眼とが出っくわす瞬間が、もう一度ほしい。先生の眼だけではない、奥さんの眼とも……。
彼のこの願いは、ほとんど衝動的《しょうどうてき》だった。それでいて何か無視出来ない厳粛な願いのように感じられた。もしその一瞬が得られないで汽車が遠のいてしまうとしたら、……彼はそう思っただけでも、もう何もかもがめちゃくちゃになる気さえした。
彼は急に、それまで寄りかかっていた柵をはなれ、右側にならんでいた五六人の生徒をおしのけるようにして、最右翼に出た。そこは小さな倉庫みたような建物で限られており、それ以上生徒のならぶ余地はなかったが、倉庫と柵との間には、やっと人ひとり歩けるほどの空地があった。彼はその空地を一間ほどはいりこむと、柵の一番上の横木に飛びのり、片足を建物の板壁にかけてつっ立った。それから、右手に帽子、左手によごれた手拭をつかみ、何か信号でもやりそうな
前へ
次へ
全184ページ中145ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング