いうちに、朝倉先生は、もう、玄関に待たしてあった人力車にとびのって、駅の方へ急いでいたのであった。
送別式に何かの波瀾《はらん》を予想し、興味本位でそれを期待していた生徒たちも決して少くはなかった。彼らは、見送りのために校庭に集合しながら、くちぐちに言った。
「つまんなかったなあ。……朝倉先生、もっと何か言うかと思っていたよ。」
「僕は、先生の最後の雄弁をきくつもりで張りきっていたんだが、がっかりしたね。」
「何んだか、ばかにされたような気がするね。」
「うむ。しかし、校長はほっとしたんだろう。」
「校長を安心させて、僕たちを失望させるって法はないよ。」
「朝倉先生も今日はどうかしていたね。」
「妥協したんじゃないかな。」
「そうかも知れん。でなけりゃあ、もう少しぐらい何か言うはずだよ。」
「しかし、辞職してしまってから妥協したって、何にもならんじゃないか。」
「これからさきのことを考えたんだよ、きっと。」
「ふうん、そうかもしれんね。」
「このごろは、一度憲兵ににらまれた人は、よほどおとなしくしないと、日本国中どこに行ってもにらまれるそうだからね。」
「そんなこと、誰にきいたんだい。」
「曾根少佐が言っていたよ。」
「なあんだ、やっぱり蟇《がま》の言ったことか。」
「あいつ誰にでもそんなこと言うんだね。僕もきいたよ。」
「朝倉先生も、ひょっとすると蟇におどかされたのかも知れないね。」
「まさか。」
「しかし、朝倉先生の豹変《ひょうへん》ぶりは、とにかくおかしいよ。あれじゃあ、先生がいつも言っていた信念なんて、あやしいものだね。」
次郎は、そんな対話を耳にして、なさけなくも思い、腹も立った。しかし彼は先生のために弁解してみる気には、少しもなれなかった。どうせ衆愚《しゅうぐ》というものはそんな程度のものだ。そう思って、心の中で冷笑していた。
駅の見送りには、生徒たちは一人も歩廊に入らず、駅から東寄りの線路の柵外に整列して見送る慣例になっていた。八百の生徒がせまい地域に整列するので、距離も間隔もない一かたまりの集団になるよりほかはなかった。五年が最前線だった。次郎はその右翼から五六番目のところに位置していた。
彼は、柵にからだをよせかけながら、何度も腕時計を見た。東京行連絡の急行は、三時五分発になっていた。あと十五分、十分、七分、と、時計の秒をかぞえながら、周囲
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